▼梅柳山 木母寺の御朱印です。(東京都墨田区堤通2-16-1)
▼木母寺 本尊「元三大師」の御朱印(2021年)。
▼木母寺「梅若塚」の御朱印(2014年)。
▼2021年3月は本堂社務所入口脇に2種類の書置き御朱印が置かれていました。
日付に月日は入っていませんが印刷ではなく、きちんと筆書きに朱印されていました。
「書き置き」が感染症対策としての方法ならば、非対面のこの方式の方がよりベターと言うことになります。
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「隅田川神社」もすぐ近くにあります。
▼名所江戸図会「木母寺 内川御前栽畑」は現在地とは少し違うようです。(wiki木母寺)
▼桜が咲いていたのは2014年訪問時。
▼寺の境内に桜の木はそんなに多くはありませんが、隣接する「東白鬚公園」は桜の名所でもあります。
▼車ですと、こちらから寺境内に入ります。
「隅田川神社」訪問の時も感じましたが、隅田川沿いの首都高速6号は圧迫感があり、なんともジャマです。
▼境内に足を踏み入れると、何よりも見慣れぬ建物に目が奪われます。
▼異国風の3階建ての建物は「納骨堂」でした。
▼こちらは公園側の入り口。
▼やはり「納骨堂」が一番目立っています。
▼「本堂」はコンクリート製の現代的な大きな建物ですが、圧倒的な存在感を持つ「納骨堂」に縮こまっているように思います。
参拝は階段を上がって2階になります。
▼「梅若堂」は堂全体がガラスケースに収められているような様子で、光ってよく見えません。
▼iphoneをガラスにピタッとつけてみました。
左から梅若丸「山王権現」、「伎芸天」、梅若丸の母の妙亀尼「妙亀大明神」だそうです。
木母寺に伝わる梅若伝説を寺のHPからの引用です。
平安時代、人買にさらわれて、この地で亡くなった梅若丸という子供と、その子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる伝説があります。この伝説を元にして、後に、能の隅田川をはじめ歌舞伎、浄瑠璃、舞踊、謡曲、オペラなど、さまざまな作品が「隅田川物」として生まれていきました。この隅田川物を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣」を行ったことから、芸道上達のお寺として広く庶民の信仰を集めるようになりました。
悲しい物語の「隅田川物」が演じられたのは江戸時代でしょうか?
寺のHPにはおびただしい数の、寺と「隅田川物」の浮世絵が掲載されています。
歌舞伎、浄瑠璃などは全く知識がありませんが、能は現代でも演じられているかもしれません。
何れにしても当時は有名な、特に役者たちには知られていた木母寺です。
そして「芸道上達」のご利益がある寺として発展してきたのでしょう。
▼「梅若塚」の元は現在地の少し東になる「墨田区立梅若公園」にあったそうです。
微妙な形状の「塚」です。
▼こちらは「身がわり地蔵」。
「木母寺」という名は少し珍しいのですが、寺の由緒によると、
徳川家康によって梅柳山の山号を得、慶長12年(1607)には前関白近衛信尹が参詣し、柳の枝を折って筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」に分けて以来、現在の寺号になりました。
という事だそうで納得ですが、なぜへ偏と旁に分けたのかわかりません。
▼明治後期の木母寺の様子は左奥に料亭、中央が梅若堂、右が本堂だそうですが、戦災で消滅しています。
▼「天下之糸平」は幕末、明治の実業家、相場師 田中平八の碑。
横浜で糸屋平八商店を営み、生糸・洋銀などの相場で財を成し「天下の糸平」と呼ばれたそうです。
石碑の文字は伊藤博文の揮毫だそうです。
▼梅若堂の裏手周辺にはたくさんの石碑や塚が立ちます。
やはり芸能を生業とする人たちの建立が目立ちます。
▼「料理家 八百松」と読めます。
「八百松」は江戸時代、役人や政治家、役者など各界の著名人が利用していたという向島の高級料亭だったそうです。
伝説に始まり石碑、塚など見所も多く、芸事上達のご利益もあるのでしょうが、
如何せん寺の立地条件が良くありません。
墨田区内でももう少し街中にあったら参拝者も多くを望めるでしょうが、
最寄駅の「鐘ヶ淵」は東京の他区に住む人のほとんどは、その存在を知らないでしょう。
駅名にもなった「鐘淵紡績」→「鐘紡」→「カネボウ株式会社」も現在は消滅していて、唯一その名が知られるのは駅名と「カネボウ化粧品」だけかもしれません。
向島と同様にひと時は光り輝いた歴史を持つ地域です。
▼木母寺の隣とも言える神社です。