歩く中尊寺の2記事目です。
▼阿弥陀堂の前から、いよいよ有料区域の玄関「讃衡蔵(さんこうぞう)」に入ります。
▼拝観料800円をお支払い。しかしここから先は建物内はすべて撮影禁止です。
この建物には「紺紙金字一切経」などの国宝や重文のお宝が展示されています。じっくりと見ていると時間は容赦なく過ぎていきます。
▼建物内で「丈六仏」の御朱印を直書きしていただきます。
▼「讃衡蔵」を出ると木間に「金色堂」が見えてきました。
見えているのは正確には金色堂の「覆い堂」と言う事になり、この建物自体に大きな価値はありませんが、「金色堂」を紹介する上で一番ポピュラーな光景でもあります。
▼堂内で朱印帳を購入すると見開きで朱印が押されています。
内部の清衡、基衡、秀衡、泰衡が眠る須弥壇は、これまで印刷物やネットで見た通りです。当たり前ですが。
いや、ガラスに覆われ、さらに拝観者の人々の頭越しに見る国宝は、正直「見た」という事実は残しますが、大きな感動を得るには難しい環境かもしれません。
それにしてもこの金色堂が創建時には覆い堂はなく、青空の下で金ピカに輝いていたのですから驚きです。
その後に覆い堂が造られたとしても、唯一創建時のまま残されているのは奇跡的です。
他の平泉の寺々の建物はすべて火災や兵火で焼失しています。ここ中尊寺も金色堂以外の主な建物もすべて後の世に建立されたものです。
なぜ金色堂だけが残ったのか? なぜ頼朝の軍勢もここだけは焼かなかった。
それは遺骸が納められている清衡らの「祟り」を恐れたからだと言う見方もあるようです。
崇徳天皇の怨霊伝説や、道真の祟りなどが有名なように平安時代には「祟り」を異常に意識したそうです。
金色堂だけが残った理由の真実は定かではありませんが、いずれにしてもこの堂が無い中で世界遺産となったら、かなり味気ない遺産になってしまう事は間違いないでしょう。
▼その金色堂を出ると、同じようにここを訪れた人の歌碑があります。
ここは、曾良を伴って2400km、150日間の旅をした芭蕉の訪問先北限です。
読めませんが、あまりに有名な句「五月雨の 降り残してや 光堂」です。
▼「経蔵」平安時代の古材が随所に使われているそうです。
▼「関山 天満宮」。中尊寺境内にはいくつもの神社があります。
▼芭蕉が平泉を訪れた1689年は、藤原氏滅亡の400年後になるそうです。
▼「旧覆堂」は室町時代の建立とか。となると、芭蕉もこの覆堂の中の金色堂を句に詠んだのでしょうか?
▼「大長寿院」に入ってみます。
気持ちの良い庭です。
▼元三大師が祀られているようです。
境内は「薪能」の準備で雑然としていました。
▼板絵が色褪せた重文の「能舞台」は年月を経て「好々爺」のような顔をしています。
拝殿は小振りでした。何しろ境内は能楽の準備進行中で落ち着きません。
▼落ち着かない神社でしたが、御朱印はここでも直書きしていただけます。
▼「かんざん亭」はゆっくりしたい人向け。テラス席は最高の眺めが待っています。
中尊寺の御朱印もいよいよ大詰めで、まだ一つ残しているお堂を目指します。
「讃衡蔵」の前に戻ることになるのですが、先に「阿弥陀堂」で御朱印をいただいてから、ここ「弁天堂」飛ばして金色堂に向かってしまいました。
で、最後の参拝箇所になったわけですが・・・
▼「終了」でした。終了とは書置きのことでしょうが、まだ午後2時前です。どのくらいの数を用意していたのでしょう?
「阿弥陀堂」でいただいた時に一緒にいただいておけばよかったのですが・・。
こんな調子で中尊寺の御朱印は書置きも多く、普段や時間によっては朱印所が閉まっている場合や、終了してしまっている場合も多く、全ていただけるのは運次第?
▼何事もすべてがトントン拍子に運ぶことはないようです。
物見に寄って、今度はゆっくり景色を眺めます。遠方の家屋などを除けば800年前とさして変わりない眺めなのでしょう。
再び月見坂を下って、奥州の覇者・藤原氏の力の象徴でもある中尊寺金色堂を後にします。
2つ前の、中尊寺御朱印まとめ記事で「再訪はしないだろうなぁ」書いてしまいましたが、今こうして写真を貼りながら振り返ってみると、やはりとても良い空間の寺だと言うことを改めて知らされます。
前言は撤回して、機会があれば紅葉の時期などに再訪して、その時は慌ただしく御朱印をいただくのではなく、月見坂をのんびり歩き、各お堂もじっくり参拝・観察できたらと思いました。