▼瑞巌寺山内 円通院の御朱印です(臨済宗妙心寺派・宮城県宮城郡松島町松島)
▼瑞巌寺の拝観受付を出て右に進むと「円通院」があります。
江戸時代には瑞巌寺を核として30以上の寺が存在する寺町が形成されていたそうです。
現存しているのは僅かでしょうが、この寺もその一つなのでしょう。
▼山門をくぐると左に「縁結び観音」。竜に乗っている観音像は小さい。
まぁ「縁結び」ですから比較的新しく造られたものなのでしょう。
でも周りは結ばれたおみくじと、縁結びコケシがギッシリ。500円だそうです。
あちらこちらで「縁結び」は大発生、大繁盛。時代の一面を映し出しています。
▼コケシを過ぎると緑と白のコントラストが快感の光景が現れました。
▼「天の庭」と「地の庭」で構成されているそうで、松島湾の海を見立て、浮かぶ石は実際の七福神の島を表しているそうです。手前の2つの石は大黒天と恵比寿。
▼奥に歩み「霊屋」はこちらの拝観順路の矢印に進んでみます。
▼ここでは数珠作りの体験ができるそうです。
▼本堂手前の庭の裏に当たると思います。伊達藩の江戸屋敷にあった小堀遠州作の庭をそのまま移設した「遠州の庭」です。この位置からですと庭というかきれいな山です。
それにしても8月15日の真夏なのに、芽吹いたばかりの新緑ようなグリーンシャワーが汚れた心を洗い流してくれるような思いになります。
決して流れ去らないでしょうが、ハンパじゃない汚れは・・・。ため息が出ます。
▼藩祖政宗の孫、伊達光宗の霊屋「三慧殿」。光宗は19歳という若さで亡くなっているそうです。「円通院」はその光宗の法名で、菩提寺です。
二代藩主 忠宗によって400年前に建立され、300年以上公開されずにいた伊達藩の秘蔵だそうです。
▼扁額も当時のままなのでしょうか? 読めなくなっていますが、よく見ると「三慧殿」。
▼堂内はガラスに覆われていてくっきり見えません。煌びやかな厨子の中に「馬上束帯光宗像」です。
▼厨子にはローマとフィレンツェを象徴するバラと水仙の花が描かれています。ヨーロッパ使節団を卒いた支倉常長が持ち帰ったと伝わるバラのほか、ダイヤ、ハートなどのトランプ模様も描かれているそうですが、花の他はよくわかりません。
馬上の光宗の像の周りには7体の別の像があり、それらは光宗の死に対して殉死した者たちだそうです。殉死です。仕えた主君の後を追って自殺することです。
武士ですので自殺といえば「追い腹」でしょうか? それとも違う死に方を選べたのでしょうか?
もしかしたら、自ら進んでではなく、半強制的に、やむなく殉死させられたかもしれません。
あるいは彼らにはもとより覚悟の教育がなされていたのでしょうか?
主君は長生きを心がけなければなりませんが、光宗の場合、毒殺されたとも伝わっているそうです。
▼霊屋から右手に進むと「洞窟群」が並んでいます。
瑞巌寺にも印象深い洞窟がたくさんありましたが、ここ松島には他にも洞窟遺跡がたくさんあるそうです。
▼どれも供養のための塔が建てれていますが、これは伊達政宗の7男、宗高の供養塔。
彼も上洛の折に疱瘡をわずらい20歳で他界しているそうです。
そしてここでも「殉死」です。侍女を含む10名の殉死者の供養塔が、中央の宗高の供養塔を囲むように建てられています。
侍女も殉死?! 現代なら社長が病死、事故死したら、その秘書が「追い腹」です。
「誰がぁー? なんでぇー?」「ジョーダンじゃないわよぉ!」という秘書の声が聞こえてきそうです。
400年も前の武家社会の人々の精神構造は理解できません。ため息が出ます。
▼ここは円通院が「バラ寺」と呼ばれる「白華峰西洋の庭」。
支倉は仙台の人々には有名なのでしょう。一般的にはどうでしょう?
▼仙台土産にもなっている「支倉焼」は、時々みやげとしていただきます。見た目より相当美味しいです。
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▼本堂「大悲亭」です。やはり400年前江戸から解体移築したもので、江戸、東京の建物はすべて焼失していますので唯一残っている当時の建物だそうです。
▼「大悲」といったら大悲殿とか大悲閣で、祀られているのは観音さまです。
グリーンと殉死にため息を漏らしながら帰ります。
▼円通院を出ると真ん前に瑞巌寺の「三聖堂」。聖観音、達磨大師、道真の三聖が祀られていますが、ほとんどの人はスルーです。
▼さらに円通院の先に「天麒院」の案内がありますので、行って見ます。
▼いろは姫の菩提寺ですが、参拝者は少数。
▼ですが・・・またもや、これです。今回の旅でいくつ目?
ため息でした。