寺号の「笠覆寺」は音読みで「りゅうふくじ」です。
「笠寺観音(かさでらかんのん)」は通称。
中央墨書きは「大悲閣」、左は「笠寺観音」。
「大悲閣」とか「大悲殿」は、本尊の観音さまが安置されている建物の呼び名です。
右上の印は複数の札所を示す
「尾張四観音ノ一 尾張三十三観音三番 名古屋二十一大師十六番」。
中央印は本尊の十一面観音を示す梵字の「キャ」に蓮台。
そして左下の「天林山笠覆寺之印」と続いています。
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名古屋繁華街から少し離れた商業地と住宅地が混在する街に山門を構えます。
▼「本笠寺駅」方面から歩くと「西門」が見つかります。
▼「西門」を潜らずに手前を右に回り込むと「仁王門」の建つ正面参道です。
龍泉寺、荒子観音、甚目寺などと並んで「尾張四観音」に数えられます。
寺の創建は733年、呼続(よびつぎ)の浜辺に打ち上げられた、夜な夜な不思議な光を放つ霊木から十一面観音像を彫り、祀られたのが始まりとされています。
(▼写真は【wiki】)
川や海から流れ着いたり、網にかかったりする仏像や、またはその光る霊木から彫られた仏像は「観音像」の定番の現れ方のようです。
他にも光る地面から掘り出された仏像もあるでしょう。
寺院が創建不詳で、祀られている本尊の出生も不明であるのは不名誉なことであるので、色付けられたり、創作されたりの観音様の出現でしょう。
▼本尊の「十一面観音(秘仏)」が祀られている「本堂」。
秘仏は8年ごとに開帳されるそうです。 (▼以下2点の写真も【wiki】)
▲尾張三名鐘のひとつの「鐘楼」と ▼阿弥陀如来が祀られる「多宝塔」です。
寺の創建200年後、
堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。
ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年 - 935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った鳴海家長・太郎成高の家に仕える娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。
延長8年(930年)この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。
笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。(引用 wiki)
(▼以下写真2点は【笠寺観音公式サイト 天林山笠覆寺】)
「笠地蔵」は日本昔ばなしですが、この寺では「笠観音」ということになります。
藤原兼平という実在の人物名が出てくると、伝承されるラブストーリーも真実味を帯びてきます。
▼玉照姫が覆せた笠の「断片」が寺の「おたから」とされているようです。
▼藤原兼平と玉照姫が祀られている「玉照堂」。
▼本堂の右手に「宮本武蔵供養碑」がありました。
巌流島の決闘から10年以上の後、江戸での仕官がかなわなかった武蔵は尾張徳川家の兵法指南役を目指し、この地で道場を開き、弟子に剣術を教えたと伝わります。
▼には武蔵自筆の書、自作の木刀、後年に弟子が書かせたとされる肖像画が伝わるそうです。(写真は【朝日新聞デジタル】)
「平安時代の公家と姫 vs 江戸時代の剣豪」
時代差の取り組みが見られた笠寺観音でした。
「笠」の文字が使われている寺社は
「笠石神社」「笠森寺」ほかは・・?