▼鳳凰山 大徳院 甚目寺の御朱印です。(真言宗智山派・愛知県あま市甚目寺東門前)
「大悲殿」のご朱印は「東海百観音」など複数の霊場御朱印となっています。
▼同「東海三十六不動」のご朱印。
「漆部神社(ぬりべじんじゃ)」は、かつては甚目寺の鎮守社で、寺に隣接して鎮座しています。
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▼甚目寺は創建が推古天皇の時代まで遡る古い、古い、歴史ある寺です。
その古さにはかなわないものの、この町には個人的な古い記憶があります。
御朱印に興味を持つ人に個人を語っても誰も読みません。以下写真だけご覧ください。
ごく幼い頃の自分の甚目寺は「じもくじ」でした。
寺の名前ではなく、祖母と何らかの関係にあった、祖母より少し年下の年配の女性が住んでいる町の名称でした。祖母が親しかった女性は祖母と何らかの血縁関係だったのか、別な関係だったのか詳細は未だ知らずにいます。しかしその女性は裕福だったことだけは確かでした。
おそらくその女性のご主人、もしくは家族が甚目寺のある企業で有力な地位についていたようです。その企業は現存し地元では誰もが知っている企業に成長しています。
当時その女性の生活環境と祖母のそれとは異なり、我が家は巷の平均的貧しさで決して裕福ではなく、タワマンとアパートくらいの違いがあったかもしれません。それでも甚目寺の女性は、ワタシの祖母を頼りに、彼女の住まいに比べたら粗末で狭く、また日々の食事内容も劣る三河の我が家にタビタビ遊びに来て、楽しそうに数日滞在しては帰っていきました。母はその都度、姑とその客に気遣って、右往左往。彼女がやるべき仕事量が増えました。豪華でもない食事で、もてなす事は母にとっては屈辱的だったかもしれません。それでもその女性を嫌っていた訳ではないようでした。
親戚でもないので家同士の交流があったわけでなく、祖母とその女性2人だけの付き合いだったようで、田舎を離れたワタシは現在まで女性の名前さえ忘れていました。
ある日、祖母は幼いワタシを連れて甚目寺のその女性宅へ連れて行ってくれました。
1泊か2泊の訪問でしたが、人見知りで引っ込み思案だった幼いワタシは一人退屈していました。女性の家や町がどのようであったかは全く記憶がありません。
全ては朧げな僅かな記憶しかありませんが、孤独な子供は甚目寺の田圃の畦道にしゃがみ、一人カエルの鳴き声を聞いていた記憶だけは鮮明に残っています。
当事者二人がとっくに亡くなっている現在、家同士は全くの音信不通。
今回訪問したのは、僅かな記憶の風景を探すことを目的とした田んぼの「じもくじ」と、ご朱印目的の寺の「甚目寺」でした。
御朱印は目的がかなったものの、幼い目に映った風景を見つける事はできませんでした。予想していたことではありますが・・。
寺の「甚目寺」は当然初訪問。あたりまえですが、記憶の中の「じもくじ」とのギャップは大き過ぎました。
▼寺の西に境内つながりで漆部神社があります。
文字通り「漆(うるし)」「漆器(しっき)」の神社です。
▼「漆」や「漆器」を扱う人たちの神様が祀られているようです。
広い境内に大きな寺と神社でしたが、参拝者の人影は見あたりません。
幼い頃の広い大きな田んぼにも人影はなかったように記憶しています。