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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

覚園寺の御朱印(神奈川・鎌倉市)〜「祈りを捧げる空間」は鎌倉屈指のWonderful & Paid Area.

鷲峰山 覚園寺御朱印

かくおんじ真言宗泉涌寺派、本尊:薬師如来(神奈川県鎌倉市二階堂4211)

覚園寺御朱印です。

右上の印は「北条義時公霊験 戌神伐折羅大将」。

戌神(じゅっしん)=伐折羅大将(ばさらだいしょう)=十二神将の1神、という関係で良いと思います。

 

十二神将薬師如来が従える12人の守護神、武装集団です。

御朱印の像は十二神像のうち戌神。十二支と結び付けて信仰されることもありますのでここでは「戌(いぬ)」を意味します。

北条義時はこの戌神の霊験により、1218年、大倉薬師堂を建てたことで、八幡宮での公暁の襲撃から難を逃れたと伝わります。

薬師堂はその後の1296年、9代執権 北条貞時の時代に正式な寺院となっています。

 

覚園寺御朱印です。「鎌倉二十四地蔵尊 第三番 黒地蔵

覚園寺はこのほか鎌倉十三仏霊場 第11番「阿閦如来」の札所でもあります。

 

御朱印は境内にある拝観受付でいただきました。

 

覚園寺は鎌倉中心街の北にあり、鶴岡八幡宮から徒歩20分ほどで少し不便な地。

鎌倉特有の谷戸(やと)が、鎌倉宮あたりからも北へ深く延びています。

▼その谷戸の行き止まりに覚園寺が山門を構えています。

▼ガイドを従えた参拝者グループも多く、無人の山門撮影は容易ではありません。

▼オマケに散歩する近所のワンちゃんも現れました。

1歳半のワンコはまだやんちゃな子供。遊びたくてウズウズ。顔を思いっきり撫で回し喜ばしてやりました。

 

▼山門内に大きな護札が貼られていました。

山号の「鷲峰山」は読みが難しく「じゅぶせん」。

▼山門の写真ばかりが続きますが、覚園寺は肝心の主要拝観区域は撮影禁止。

いきおい撮影フリー区域ばかりの写真になります。

▼境内側から見返った山門。

▼石段を上がり山門をくぐった先の正面に建つのは愛染明王が祀られる「愛染堂」。

▼しばし「山門」と「愛染堂」の間の境内を写し撮ります。

▼撮影記念パネルでしょうか? 覚園寺の拝観スタイルに似つかわしからぬ存在です。

▼「愛染堂」前の小さな鐘楼。

▼「まことの鐘」「大東亜戦争に・・・」などの文字が読み取れます。

▼そしてこの先は撮影禁止エリアとなる拝観受付。

▼薬師堂がメインで見て回る堂宇は多くはありません。

何と言っても薬師堂は外観も美しく、内部は見上げる薬師三尊像、十二神将像に圧倒されました。

 

▼拝観受付を越えないで望遠撮影の後加工した「薬師堂」。

▼同じく「地蔵堂」。

 

撮影禁止の有料拝観区域は、確かに鎌倉でも屈指の景観を保っています。

寺側では「祈りを捧げる空間」として撮影禁止にしているようです。

その空間を護持するために、鎌倉の寺院の中でも建長寺と同じく最高額の500円の拝観料を徴収しています。

500円の拝観料は、一定時間毎に寺僧のガイド付きのツアー形式だったので納得数値でもあったようですが、コロナ禍以後はこのツアー形式を中止しています。

しかし拝観料は変わらず500円で、撮影禁止も変更なしです。

 

何度も訪問している鎌倉でも覚園寺は今回が初訪問。

円覚寺建長寺瑞泉寺などとは異なる空間の素晴らしさは訪問者数の違いにも寄ることが大きいと思います。

参拝者で混雑する境内に「祈りを捧げる空間」を見つけることは難しいでしょう。

 

そして堂内の仏像などの撮禁は誰しも理解できることですが、その周辺の境内も撮禁は考えさせられました。

覚園寺が観光寺なのか、本当の意味での「祈りの場」なのかも・・・。

 

妻恋神社の御朱印(東京・文京区)〜「悪夢」のような長蛇の列を離れ「吉夢」の神社へ

妻恋神社御朱印

つまこい じんじゃ主祭神倉稲魂命(東京都文京区湯島3-2-6)

「妻」の文字は旧字の「妻」が使用されています。

 

妻恋神社御朱印です(「七福神」2023年)。

 

妻恋神社御朱印です(2020年)。

「美麗」と言う表現がピッタリの墨文字です。

 

妻恋神社御朱印です(2017年)。

御朱印は社殿右手の社務所授与口でいただきました。

▼元日から4日までは書置きのみの授与。

▼金文字の迎春記念御朱印は予定数量に達すると終了となるようです。

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平日の授与窓口は閉まっていて無人となることが殆どですので、訪問する場合は要チェックです。

 

▼正月は悪夢のような参拝者の列がつくられている「神田明神」を裏参道から出ます。

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神田神社裏参道の石段を降りると当社由来の名称「新妻恋坂」となります。

▼「新妻恋坂」の途中にある「清水坂」交差点から湯島天神方面へ「清水坂」が始まります。

▼その「清水坂」の途中に神社の案内看板があります。数年前に新しく設置されたもので、確か以前は石で出来た案内だったと記憶しています。

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▼「吉夢」とは良い夢を見るためのお札のような授与品です。

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▼神社のHPからお借りした写真と引用です。

初夢(その年に初めて見る夢)でその年の吉凶を占うという古来からの風習がありますが、吉夢(よいゆめ)とは、枕の下に敷いて縁起の良い夢を見ようという縁起物の一つです。


▼正月の夕方近くでは献灯が灯され、昼間とは違いとても良い雰囲気です。

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▼神社鳥居前のこの通りが元々の「妻恋坂」です。

平行する広い蔵前通りの方は後からできているので「新妻恋坂」と呼ばれれています。

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▼普段はひっそりしていることが多く、無人の神社ですが・・・

▼さすが正月はたくさんの参拝者が訪れています。

f:id:wave0131:20200108145235j:plain「妻恋神社」という美しい名称の由来は、創建不明の神社の起源まで遡ります。

日本武尊が上総の国碓日嶺に登り東南の方を望み「吾妻者耶・・・・・」と恋い慕いたもうたとの意を取って「妻恋明神」と号した。

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引用は神社のHPからですが要約するに、

日本武尊が「あづまはや(ああ、吾が妻よ)」と弟橘媛命を偲んだことを知った湯島の郷民が、東国征伐のために一行の野営地となった場所に日本武尊弟橘媛を祀ったのが妻恋神社の始まりであると伝わっています。

 

その言葉「あづまはや」から、関東を「あづま・あずま」と呼ぶようになったとも言われています。

と言うことで当社の創建年は不詳。

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祭神の稲荷明神 倉稲魂命は後に合祀され、江戸時代には「妻恋稲荷」と呼ばれ、

関東総司稲荷神社」「稲荷関東惣社」とも名乗るようになり、江戸の代表的な「おいなりさま」として多くの参詣人を集めたそうです。

空襲によって失われた社殿は、戦後の昭和に再建されたコンクリート製です。

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▼祭神の倉稲魂命日本武尊・弟橘姫命に新年のご挨拶です。

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▼普段は扉を閉めている社殿も正月はオープンです。

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当社の鎮座地は文京区といえども、湯島界隈は広範囲にラブホが点在しています。

一昔前のようなケバケバしさは少なく、一見ラブホ?と疑うようなスタイリッシュなホテルも多い。

▼ラブホもこんな外観ならば参拝者の目をごまかすことができます。

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▼社殿の左奥になります。神社に「水子地蔵」は珍しいのでは?

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▼基本的に神社が供養するとは思えませんが、例外もありでしょう。神仏分離し切れなかった名残でしょうか?

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▼神社入口石段先に境内社の「妻戀稲荷社」です。馬頭観音の石碑も見えます。

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▼その参道も近頃整備された様子です。

湯島の地は早くから稲作を行っていたと伝えられ、五穀の神である倉稲魂命が祀られたのでしょうが、そもそも「妻恋神社」自体が稲荷神社だったはず。

そこに境内社として「稲荷社」が鎮座するのはちょっと不思議でもあります。

 

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▼お使いの「狐」さまは、祠の前の小さな姿だけでした。

 

当社は猫の額と表現するのが相応しいほど狭小な境内ですが、

海原のように広く深い歴史を持つ神社に参拝して「吉夢」を追いましょう!

 

[2020.01.09-rewrite 2023.01.11]

渋谷氷川神社の御朱印(東京・渋谷区)〜渋谷地域最古の神社にカラフル御朱印

渋谷氷川神社御朱印

しぶや ひかわ じんじゃ主祭神:素盞嗚尊(

 

渋谷氷川神社御朱印です(2023年)。

1月3日の訪問ではこの書置き1種類のみの授与でした。

 

渋谷氷川神社御朱印です(月替り・2019年)。f:id:wave0131:20191017111519j:plain

カラフルですが、品は残していて好感を持てます。

 

渋谷氷川神社御朱印です(例大祭・2019年)。f:id:wave0131:20191017111514j:plain

渋谷氷川神社御朱印です(2013年)。現在の御朱印とは隔世の感!f:id:wave0131:20191017111509j:plain

渋谷氷川神社がこの2013年の御朱印を、そのまま現在まで引き継いでいたら今ほど多くの参拝者は訪れないかもしれません。

2018年頃まではどの寺社も男性的に「墨書きに朱印」だけ!が当たり前でした。

現在は御朱印が咲き誇っています。

それらは50歳ほど若返って、男らしさはなくなり女性的になっています。

 

御朱印は社殿左手の授与所でいただきました。

▼2019年の訪問は、どの御朱印がいただけるのか? 直書きなのか、書置きなのか?

しっかり読まないと理解できませんでした。

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▲▼漢数字、算用数字が入り乱れ「15日の15時10分前」は一体いつなのか混乱します。

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最新の御朱印情報は当社のInstaやFBをチェックしましょう。

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2013年の参拝時には社務所には何の案内もありませんでした。

当時は「御朱印をいただけますでしょうか?」と尋ねなければなりませんでした。

今や多くの貼紙の案内で「一目瞭然?」です。

そして「」結び。

参拝者は「」を得て、神社は「」を得る。WIN, WIN でみんなく治まります。

 

▼「渋谷駅」から当社へ徒歩ですと10〜12分ほど必要です。

渋谷駅を軸として半径1km圏内にほとんど緑はありません。

▼しかし、常陸宮邸とこの神社だけは鬱蒼とした森が残っています。奇跡的です。

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もちろん、明治になる前まではもっと大きな森だったに違いありません。

当社も他の神社同様、明治以後、寺と神社が別々にされ、さらに一部は公園にもなっています。

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それでも、渋谷駅から徒歩圏内でこれだけの森を残しているのは驚きです。

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▼表参道一ノ鳥居の扁額は降り物なのでしょう。欠けていて神社名もかろうじて読めるほどです。

 

2013年の参拝時には雨模様の中、他に参拝者がいなかったせいか、とてもジットリした湿った感じを抱いた神社でした。

 

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鬱蒼とした緑は大好きですが、鬱蒼さ=寂れ、と感じる寺社もあります。

それはそれで別な味があるのですが・・。

ともかく境内が広く緑が多いということは、それだけ手入れもムチャクチャ大変です。

 

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▼ニノ鳥居脇の狛犬は現代版です。

北参道にも鳥居と狛犬

▼こちらの狛犬は明治時代の造立。


2013年の初訪問は境内整備に手が回らない、経済的に回らないのかな? とちょっと感じさせられました。

 

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その年は、参拝を終えて工事中の社務所で「御朱印、いただけますか?」と若い宮司さんに尋ねると、笑顔で「はいはい、お書きしますよ!」との反応に、陰気に思えてた境内が一気にパッと明るくなった感覚だけはシッカリ覚えています。

 

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▼そんな境内に抱いた感覚は、当時と今回も大きく変わっていませんでしたが、やはり参拝者の多さがそのイメージを変えるのでしょうか。

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▲▼拝殿の写真だって参拝者が居るか、居ないかでは、イメージは大違いです。

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▼ゴールドの光り物たちも参拝者が多ければ、17歳のように輝きはじめます。

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祭神の素盞鳴尊稲田姫命、大己貴尊、天照皇大神の四柱に挨拶しましょう。

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東京都神社庁のページから引用です。

創始は非常に古く、慶長十年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると景行天皇の御代の皇子日本武尊東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとある。

 

▼神社の光り物飾りより、さらに輝いている若者たちが通う國學院の校舎が圧倒します。

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でも、光らない事で存在をアピールできるモノ、年月があります。

 

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境内社の「厳島神社」と「稲荷神社」も素朴なまま。

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▼2023年の「稲荷神社」の狐たちは赤でドレスアップ。

▼「厳島神社」前の狛犬は豊かに様々な表情。

▼「秋葉社」に「八幡社」。渋谷で土を見かけることは少ないのです。

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▼かわいい狛犬たちは相当疲れています。

 

渋谷で土を見かけることは少ないのです。

都心部でガラスとコンクリートで固めた、Cafeのある境内より、土を残す境内の方がより希少かもしれません。

しかし東京では、そんな素朴のまま、イモッコロのままではいられません。

 

▼野鳥用の巣箱だったらホッコリしますが、夜盗用のカメラなのでしょうか?

f:id:wave0131:20191017111606j:plain渋谷氷川神社内で唯一カタカナを名称にもつ物、「カメラ」でした。

こんなにカメラを設置しなければならないスゴイ世の中です。

 

▼そして神社境内をLED蛍光灯のように明るく照らすのは、やはり女子!

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縁結び祈願と、その御朱印目当ての女子たちが境内に明るく輝いていました。

この神社のもう一つのカタカナは「ガールズ」です。

 

▼Boys、男子にLED並みのカガヤキを望むのは酷かしら?

國學院側の参道に鮮明さとカガヤキは見かけられませんでした。

 

渋谷という地域にしては広大な敷地を持ち、そして地域最古の氷川神社でした。

 

[2019.10.21-rewrite 2023.01.09]

洲崎神社の御朱印(東京・江東区) 〜かつては「洲崎パラダイス」だった?

洲崎神社御朱印

すさき じんじゃ主祭神:市杵島比売命(東京都江東区木場6-13-13)

2023年に御朱印をいただいたのは、何と11年ぶり。

参拝はその間に1、2回で、直近では5年ほどの間隙があります。

その5年の間に「玉の輿たまちゃん」が生まれていました。縁起物のブームです。

 

洲崎神社御朱印です(2023年)。

洲崎神社御朱印です(2023年)。

地下鉄東西線木場駅」徒歩2〜3分で当社へ到着です。

有名な千葉の安房国一宮など「洲崎神社」という名称の神社は、海に囲まれたこの国には複数あります。

 

▼「洲崎神社」は東京都江東区木場にもあり、江戸時代は名所にもなっていました。

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神社は海際に鎮座して文字通り「洲崎」であり、賑わった景勝地でもあったので江戸時代の絵はたくさん残されています。

▼「洲崎弁天」として広重の絵もあり、手に取れるような風景描写を文字にする荷風も尋ねていますが、「洲崎」の地名は現在はありません。f:id:wave0131:20190405171311j:plain

▼かつての海岸線は今や遠くになり、静かな住宅街となった地に鳥居が建ちます。

▼洲の文字は「」が使われています。

当社は1700年、江戸城に祀られていた弁財天を遷し「洲崎弁天社」として創建されたと伝わります。

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祀られた弁財天像は空海作といわれ、綱吉の母 桂昌院の守り本尊でもあったそうです。

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当社や地域一帯の街は震災と空襲で焼失されていますので、現在の建物は昭和の再建によるものです。

▼手水舎の横に「玉の輿たまちゃん」。

たまちゃん」という名称は軽すぎて、その像もまるでマスコット。

しかし、八百屋の娘として生まれたと伝わる桂昌院は、将軍側室までになり「玉の輿」の代名詞になっています。

そんな桂昌院にあやかろうというわけです。

桂昌院は「お玉の方」とも呼ばれ、この「たまちゃん」は八百屋の娘らしく人参を抱えています。

▼普段は静かな境内ですが、さすが正月三日は賑わいの拝殿前です。

▼赤っぽい台座に乗った狛犬は、うなり声が聞こえてきそうな構え。

車訪問ですと特に案内もなく、侵入経路は見つけにくいのですが、神社の南側になる社殿横に数台駐車できるスペースがあります。

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▼社殿はコンパクトですがバランスも良く装飾も美しい。

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浮世絵などを見ると、景勝地だった江戸時代の社殿はもっと規模の大きなものだったようです。

▼社殿左手に境内社が三社並んでいます。

▼左から「弁天社」。以前は池に浮かぶ小島に鎮座していたそうです。

▼真ん中が「豊川稲荷」。

▼「於六稲荷」は於六という女狐が祀られているそうです。

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▼風化して文字が読めない石碑と力石。

▼参道途中に寛政3年(1791)9月4日の高波を後の世にいましめた波除碑があります。

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▼200年以上も前に建てられた「波除碑(なみよけのひ)」はヨレヨレですが貴重。

海に囲まれ、山から海に注ぐ無数の河川が網の目のように張りめぐされているこの国に住む、今も続く人々の水との闘いの一つの証でしょう。

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▼「竿忠」は釣竿職人だったそうです。

▼この神社から東に運河を渡った一帯は、東陽一丁目と言う味気ない地名に変更されています。

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永代通りの方から洲崎に向かうと、かつては門というか、アーチがありました。

通りは今でも「大門通り」という名称を残しています。

 

▼「州崎パラダイス 赤信号」という映画にもなった。1956年の映画の写真です。

f:id:wave0131:20190405172114j:plainそして、ここが江戸時代の根津から移転された遊郭で、1958年の売春防止法施行まで続いた男たちの楽園、パラダイスでした。

 

芥川賞作家・茂木好子が、そこで働く女たちの悲哀と希望を描いています。

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当時は誰もが知る存在だったのでしょうが、現在は近辺に建ち並ぶマンションの住民でさえ、パラダイスだった過去なんて知らないのかもしれない?

▼この通りを進むと・・・

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▼かつて、女たちが1階の軒下や窓から男たちを誘っていた情景が容易に想像できる建物が今世紀初頭までは何軒か残っていました。

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現在、ストリートビューで確認してみたら、1軒も見つからない。ゼロです。

小綺麗な住宅やマンションがとって変わって、その存在を確認するものが、もはや写真でしかなくなっています。

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住人の不便さを思いやらず、昔街や重要伝統的建造物群などが大好きなものとしては、残念だがやむを得ないでしょうね。

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▼この建物はスゴイ構造になっています。もちろんこれで1軒です。

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洲崎神社のように、そんな町の変化と歴史を見つめ続けるのは、やはり寺や神社しかないのかも?

▼かつての面影をわずかに残しているのは、こんな所だけ。

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これらもいつかは消えていく運命でしょう。

▼その裏は「洲崎川緑道公園」。

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もはや洲崎パラダイスと結びつけるものは何もありません。

 

興味深い歴史を持つ神社とその周辺ですが、「たまちゃん」というマスコットも現れ、神社の人気も少し盛り上がるかも知れません。

 

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[2017.05.06-rewrite 2023.01.06]

朝日神社の御朱印(東京・港区)〜六本木繁華街に千年の古社「Your Fortune, Excellent」

朝日神社御朱印

あさひ じんじゃ主祭神倉稲魂大神

2回の訪問はともに1月でしたが、特に月替りとかの断りはなく、

御朱印をお願いしたら上のような状態で戻されました。ムチャムチャ光ってます!

このほか、黒地の用紙に金文字の書置き御朱印も案内されていました。

詳細は「朝日神社」でご確認ください。

 

朝日神社御朱印です(2023年)。

朝日神社御朱印です(2020年)。f:id:wave0131:20200128140230j:plain

▼正月だけのピカピカ文字かもしれませんが、丁寧な対応と直書きでいただけました。

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▼朝日神社は六本木交差点から「芋洗坂」を下り始めてスグの所に鎮座。

六本木は夜の街のイメージです。ほとんど夜にしか足を向けない街です。そしてイメージとして神社と結びつきにくい街です。

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しかし、六本木交差点を起点に半径1km以内にはいくつかの神社が点在しています。

そのうち1丁目から7丁目まである六本木の住所名を持つ神社は、

天祖神社出雲大社東京分祠久國神社の3社があります。

というか、その3社しか知りませんでした。

 

ところがもう1社、まさか六本木交差点のすぐそばの芋洗坂に神社があるとは全く知りませんでした。

 

▼六本木交差点からではなく、麻布十番方面から芋洗坂を登って神社を目指します。

夜は何度かウロついたことのある坂ですが昼間は、ましてや日曜の昼間は初めてです。

夜になれば豹変する街ですが、今はまるで昼行灯状態です。

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▼六本木交差点が近くなると人も多くなり、急に坂の勾配がきつくなります。

芋洗坂」は正面左に続き、右方面は「饂飩坂」となります。

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おっと、神社を行き過ぎてしまいました。

周りに気を取られていると誰でも見逃しそうになる神社です。アルコールの入った夜目には絶対気づかない神社でしょう。

 

▼20mバックします。神社です。

f:id:wave0131:20200128131301j:plainいや、この白っぽいビルは朝日神社会館。神社の持ち物でしょう。ビル右下に神社の鳥居が見えます。

▼可愛らしい鳥居です。赤の鳥居なら目立って気づく人が多いかもしれません。

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▼それでも赤い幟が「神社ですよォ〜」とアピールしています。やはり寺社には幟が必須アイテムなのです。

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▼由緒によると神社の草創は940年。御朱印にも「鎮座1082年」のスタンプが押されています。

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▼由緒の引用です。

大和の武将 筒井順慶の姪で、のちに織田信長の室となりました 朝日姫(清心尼)様が、渋谷から長者ヶ丸(現広尾辺)を過ぎる途中、草むらに光輝くものを見つけ、近づき凝視してみたところ、稲荷の神像と観音の像を見つけました。

草むらより持ち帰った観音像は専称寺に祀り、稲荷の神像は当社に祀られ、弁財天と合祀して【日ヶ窪稲荷】と呼ばれるようになりました。
その後、明和年間に【朝日稲荷】と改称され、益々尊敬する人々多くなり、隆昌を極め、明治28年朝日神社】と改称し、現在に至ります。

千年前に六本木なんて、地名さえあったはずありません。土地は地理的に高い位置にありますので一面の原っぱ、雑木林だったかもしれません。

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しかし江戸時代の切絵図には「六本木」の町名も「芋洗坂」も載っていて、小さく「朝日イナリ」の文字も確認できます。

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それでも江戸時代の六本木・麻布は現在では想像もできない静かな町でした。

町家は少なく、小藩の武家屋敷と寺が続くだけの寂しいところだったそうです。

幕末になると麻布の寺々は外国の公使館として利用されています。

▼手水舎は参道奥の社殿右隣にあります。2023年は柄杓が復活。

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一般に寺院は住職が住んでいて、人の営みが可能な建物ですが、かつての神社に人は住んでいません。神の営みはあっても、人が日々の営みを続けられる建物はありません。

したがって、公使館などに利用されることもありませんでした。

 

▼朝日神社の社殿は狭く短い参道の突き当たりに、申し訳ないほど狭い空間に建ちます。参道から見ると社殿は半分ビルに隠れています。

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敷地内に優先的に建てられたのは朝日神社会館ビルで、社殿はその敷地のほとんどをビルに譲ったかのようです。

祭神の1柱「倉稲魂大神」は商売繁盛の神様でもあるから、そちらを優先されたのかもしれません?

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とはいえ、どんな形にしても幕末から、戦後、現代まで変化の激しい六本木繁華街の真ん中で神社として維持されていることはブラボーです。

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都心によく目にするように、小さな神社は一歩間違えればビル建設時に、階段の途中の小さな祠にされる運命だってあったやもしれません。

倉稲魂大神、市杵嶋姫大神大国主大神大山祇大神、北野天神の五柱の神々が祀られています。

▼社殿の背後遠方には六本木ヒルズ森タワー。怪物のような可愛くない巨大ビルです。

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▼神社も英語表記の欠かせない土地柄です。

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▼さて社務所御朱印をいただいて帰りましょうか、この街で騒いでた頃を思い出しながら・・。

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▼おみくじには興味ありませんが「ENGLISHおみくじ」を初体験してみました。

「おみくじ」は「Omikuji Instruction」と英訳されています。

▼「A Written Oracle」はそのまま。

同じく「運勢 大吉」は「Your Fortune   Excellent」。

和歌「わがおもう 港も近くなりにけり・・・」は、日本語でも意味を理解するのは難しい。それを英訳です。

おみくじ業者さんの腕の見せ所かも知れません。

[2020.01.29-rewrite 2023.01.05]

 


 

 

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