妻恋神社の御朱印
「つまこい じんじゃ」主祭神:倉稲魂命(東京都文京区湯島3-2-6)
「妻恋」の文字は旧字の「妻戀」が使用されています。
▼妻恋神社の御朱印です(2020年)。
「美麗」と言う表現がピッタリの墨文字です。
▼妻恋神社の御朱印です(2017年)。
▼元日から4日までは書置きのみの授与。
▼金文字の迎春記念御朱印は予定数量に達すると終了となるようです。
平日の授与窓口は閉まっていて無人となることが殆どですので、訪問する場合は要チェックです。
▼正月は悪夢のような参拝者の列がつくられている「神田明神」を裏参道から出ます。
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▼神田神社裏参道の石段を降りると当社由来の名称「新妻恋坂」となります。
▼「新妻恋坂」の途中にある「清水坂下」交差点から湯島天神方面へ「清水坂」が始まります。
▼その「清水坂」の途中に神社の案内看板があります。数年前に新しく設置されたもので、確か以前は石で出来た案内だったと記憶しています。
▼「吉夢」とは良い夢を見るためのお札のような授与品です。
▼神社のHPからお借りした写真と引用です。
初夢(その年に初めて見る夢)でその年の吉凶を占うという古来からの風習がありますが、吉夢(よいゆめ)とは、枕の下に敷いて縁起の良い夢を見ようという縁起物の一つです。
▼正月の夕方近くでは献灯が灯され、昼間とは違いとても良い雰囲気です。
▼神社鳥居前のこの通りが元々の「妻恋坂」です。
平行する広い蔵前通りの方は後からできているので「新妻恋坂」と呼ばれれています。
▼普段はひっそりしていることが多く、無人の神社ですが・・・
▼さすが正月はたくさんの参拝者が訪れています。
「妻恋神社」という美しい名称の由来は、創建不明の神社の起源まで遡ります。
日本武尊が上総の国碓日嶺に登り東南の方を望み「吾妻者耶・・・・・」と恋い慕いたもうたとの意を取って「妻恋明神」と号した。
引用は神社のHPからですが要約するに、
日本武尊が「あづまはや(ああ、吾が妻よ)」と弟橘媛命を偲んだことを知った湯島の郷民が、東国征伐のために一行の野営地となった場所に日本武尊と弟橘媛命を祀ったのが妻恋神社の始まりであると伝わっています。
その言葉「あづまはや」から、関東を「あづま・あずま」と呼ぶようになったとも言われています。
と言うことで当社の創建年は不詳。
祭神の稲荷明神 倉稲魂命は後に合祀され、江戸時代には「妻恋稲荷」と呼ばれ、
「関東総司稲荷神社」「稲荷関東惣社」とも名乗るようになり、江戸の代表的な「おいなりさま」として多くの参詣人を集めたそうです。
空襲によって失われた社殿は、戦後の昭和に再建されたコンクリート製です。
▼普段は扉を閉めている社殿も正月はオープンです。
当社の鎮座地は文京区といえども、湯島界隈は広範囲にラブホが点在しています。
一昔前のようなケバケバしさは少なく、一見ラブホ?と疑うようなスタイリッシュなホテルも多い。
▼ラブホもこんな外観ならば参拝者の目をごまかすことができます。
▼社殿の左奥になります。神社に「水子地蔵」は珍しいのでは?
▼基本的に神社が供養するとは思えませんが、例外もありでしょう。神仏分離し切れなかった名残でしょうか?
▼神社入口石段先に境内社の「妻戀稲荷社」です。馬頭観音の石碑も見えます。
▼その参道も近頃整備された様子です。
湯島の地は早くから稲作を行っていたと伝えられ、五穀の神である倉稲魂命が祀られたのでしょうが、そもそも「妻恋神社」自体が稲荷神社だったはず。
そこに境内社として「稲荷社」が鎮座するのはちょっと不思議でもあります。
▼お使いの「狐」さまは、祠の前の小さな姿だけでした。
当社は猫の額と表現するのが相応しいほど狭小な境内ですが、
海原のように広く深い歴史を持つ神社に参拝して「吉夢」を追いましょう!
[2020.01.09-rewrite 2023.01.11]