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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

矢先稲荷神社の御朱印(東京・台東区)〜「かっぱ橋道具街」の仁王門を守るシェフ像

矢先稲荷神社御朱印

やさき いなり じんじゃ主祭神倉稲魂命(東京都台東区松が谷2-14-1)

2023年は22年に続き朱印帳に丁寧な直書きをいただいています。

23年元日にいただいた唯一の御朱印となりました。

 

矢先稲荷神社御朱印(2023年)。



矢先稲荷神社御朱印(2022年)。f:id:wave0131:20220125183357j:plain

右上のスタンプは「浅草三十三間堂」。

右下は神社名ゆかりの「的射矢(まといや)」

左下「」の甲骨文字は、当社の社殿天井画「日本馬乗史」に由来するのでしょう。

 

矢先稲荷神社御朱印(2014年)。f:id:wave0131:20220125183354j:plain

2014年の「」の甲骨文字の下には「YASAKI」の文字がありました。

 

矢先稲荷神社浅草名所七福神 福禄寿」の御朱印(2023年)。

矢先稲荷神社浅草名所七福神 福禄寿」の御朱印(2022年)。f:id:wave0131:20220125183350j:plain

浅草名所七福神」の御朱印は、基本的に一年を通していただけます。

 

矢先稲荷神社浅草名所七福神 福禄寿」の御朱印(2013年)。f:id:wave0131:20220125183346j:plain

御朱印は社殿右手の授与所でいただけます。

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▼「矢先稲荷神社」は「かっぱ橋道具街通り」の一つ西側に平行する路地に鎮座。

 

▼飲食店御用達「道具街通り」の東側にはランドマークの「巨大シェフ」が建ちます。

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合羽橋道具街から浅草方面への区域には様々なネーミングの店舗があり滑稽です。

▼「かっぱ橋道具街通り」のアーケード下は常時多くの人で賑わっています。

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▼しかし「道具街通り」から一歩西に入ると碁盤の目の静かな通りが続いています。

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当社の創建は1642年、寛永年間です。

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当時、家光が京都の「三十三間堂」を倣って、この地の浅草に「江戸版三十三間堂」を建立しています。

その「三十三間堂」では、弓の腕を上げるための「通し矢」が行われていました。

その「通し矢」の的の先に鎮座したので「矢先稲荷」と名づけられたそうです。

要するに当社はほぼ「三十三間堂」の跡地に鎮座するわけです。

 

江戸版三十三間堂」は、深川に移転後焼失していますが、

▼そんな元の三十三間堂の様子が、当社の楽殿に描かれています。

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▼23年元日の神楽殿ではお囃子が奏でられていました。

▼お囃子が終わると三十三間堂の様子を描いたシャッターが降りてしまいました。

▼当社の鳥居を潜ると正面に神楽殿ですが、90度左に向き手水舎で清めます。

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▼華やかな花ではなく、緑の葉に囲まれた様子はとても新鮮です。

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▼23年は柄杓が復活していました。

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社殿などの全ては戦災で焼失していますので、昭和に入ってのコンクリート製の再建。

元日でも無茶混みでなく、かといって寂しくもない数の参拝者でイイ感じです。

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広くもない敷地の中で、堂々として立派な再建社殿です。

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▼祭神の「倉稲魂命(うかのみたま)」に挨拶をします。

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▼神殿内部です。

▼そして、その天井。

乗馬にまつわる歴史上の人物が100枚も描かれています。

神殿内部には馬と人物の名称を記載した一覧表がありますので、それと照らし合わせながら天井を探すと、首を上下すること数知れず、ストレッチ効果も大きいかも。

▼西側に回り込んで本殿の様子です。

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▼境内一画に注連縄が張りめぐされた井戸とポンプ。

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しっかり水が汲み出せるようです。

水どころか、東京はもっと深く掘れば、どこも温泉が湧き出るのです。

 

▼さて、当社近くの通りから東方面を眺めると、どこからも Sky Tree が見えます。

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▼「かっぱ橋道具街通り」と直角に交わる「かっぱ橋本通り」の夏は、1km以上七夕飾りが連なり、人々がごったがえします。

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▼南北の「かっぱ橋道具街通り」と東西の「かっぱ橋本通り」が縦横に交わります。

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▼その賑わいの境内を守るがごとくの仁王像とも思われる道具街山門のシェフです。

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▼コロナ下では人出も少なく「シェフ」の役割も手持ち無沙汰でしょう。

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▼10〜30万円もする包丁類を、欧米のお兄さんシェフたちが当たり前に買い求める隣の店舗で、分相応の掘り出し物の陶器を漁ります。

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ついぞ神社より、道具街の楽しさに翻弄されてしまう事まちがいない

「矢先稲荷神社」です。

 

[2017.05.19-rewrite 2022.04.20/2023.01.03]

川越八幡宮の御朱印(埼玉・川越市)〜ミドコロ満載、エキチカ神社

川越八幡宮御朱印

かわごえ はちまんぐう主祭神誉田別命(埼玉県川越市南通町19-3)

川越八幡宮御朱印です(2022年)。

下の2014年の御朱印と比較すると、内容構成的には大きく変わっていませんが、

見た目は同じ神社の御朱印とは思えないほどカラフルになっています。

 

川越八幡宮御朱印です(2014年)。

▼川越の市制施行記念や川越高校とのコラボ御朱印などが案内されていました。

境内社の「三峰神社」の御朱印もいただけるようでした。

このほか仙波東照宮御朱印もいただけます。

詳細は「川越八幡宮」に紹介されています。

 

御朱印は表参道を進むとすぐ右手にある社務所授与所でいただきました。

当社のHPの「境内のご案内」には「社務所・授与」と表記されています。

早めに修正された方がよろしいかと思いますが、余計なお世話?

 

▼当社へはJR・東武線「川越駅西武線本川越駅」のどちらからも400m未満。

繁華街の端とは言え、川越の主な社寺の中で一番に立地条件の良い神社でしょう。

 

▼交通量の多い川越街道を北方面から徒歩で訪問しました。

▼「創建千年の社」の文字が書かれた神社の案内看板の下を右折します。

例大祭が近いので紅白幕がにぎやかに設置されています。

こちらが表参道になりますが、神社の参拝者は地理的な都合で裏参道からの方が多いかもしれません。

▼社号標と対で「清明正直(せいめいせいちょく)」の文字が書かれた石標。

るく しく く」は、神道における規範、人としての在り方の基準です。

 

▼社号標から進むと「一ノ鳥居」。「夫婦イチョウ」が際立っています。

▼そしてすぐ同じく石造りの「ニノ鳥居」が続きます。

▼「ニノ鳥居」には木製らしき扁額に単に「八幡宮」の正式名称。

▼鳥居脇の「手水舎」。以前は「盥漱」の文字の読みを知りませんでした。

▼花手水風に飾られた水盤ですが、水はシッカリ流れていて清めることができます。

▼昭和の奉納の狛犬が親子で迎えてくれます。

▼社殿周辺だけ社叢が豊かで、写真ですとまるで森の中。

▼拝殿前に古い狛犬がうずくまっています。

こちらは江戸時代末期の奉納。台座が低いのでうずくまっているかのようです。

川越八幡宮は1030年、甲斐守 源頼信下総国の「平忠常の乱」平定の祈願をここで行い、戦勝に感謝し創祀されています。

源頼信は東京の「旗岡八幡宮」でも同じ祈願をして八幡大神を祀っています。

武将は戦さに向かう道々で戦勝祈願するので、さぞや多忙だったことでしょう。

そして敵対する相手も戦勝祈願していることは間違いありません。

争いが平定されたとしても真の勝者はいないのが常です。

社殿は昭和に再建されたものですが、抑制された色合いが品格を表しています。

昭和8年に植樹された2本のイチョウは根元で寄り添いあい、1本の木のようになっています。「夫婦イチョウ」「縁むすびの木」としてパワーを発揮しているとか。

▼社殿左手前に小さめの鳥居が建つ稲荷社が鎮座。

▼「民部稲荷神社」は足腰健康の伝承があり、マラソン選手やアスリートからも信仰されているそうです。

▼神社西側の「八幡通り」に面した「裏参道」です。

裏参道にも大小2本の木が仲良く手をつないでいるかのようです。

▼この写真は2011年の裏参道です。

裏参道途中にある「こころの小径」。比較的新しく整備された一画なのでしょう。

内部に入ります。

▼「再会の木」は、好きな人との再会や良縁、まだ見ぬ人との出会いを祈ります。

倉稲魂神を祀る「稲荷神社」があります。

2014年の参拝時にはまだなかった、とても綺麗に整備された気持ちの良い空間です。

▼一番奥に鎮座するのは「三峰神社」。秩父三峰山の遥拝所として創建されています。

▼「ぐち聞きさま」は聖徳太子の姿だそうです。

苦しみや悩みを聞いていただけるそうです。

人のグチなど聞きたくないものですが、こちらではしっかり聞いていただけるとか。

東京・芝の「宝珠院」に、懺悔できるようになっている「閻魔耳」を思い出しました。

▼「こころの小径」を出ると「目の神様」。ロボットのような形状の神様?

グチ聞きのに呟いたら、心の窓でもあるの健康を願い瞬きします。隣には「目薬の木」も植えられていました。

 

▼その隣に道真を祀る「菅原神社」。

▼「厄割桃」は、伊弉諾命が魔物に桃を投げつけて追い払った神話にちなみます。

▼神楽殿にも「」。「コロナに勝つ」ひと・まち・未来

 

御朱印をいただいた二度の参拝以外にも訪問しているものの、うっかりして見落としたり、撮影を忘れたりしてしまうほど見所が満載の川越八幡宮でした。

菅原神社の御朱印(東京・世田谷区)〜狛犬、牛、鯉、鳩、そして人が集う

菅原神社御朱印

すがわら じんじゃ主祭神菅原道真(東京都世田谷区松原3-20-16)

 

菅原神社御朱印です。

御朱印は社殿手前左手の社務所で直書きいただきました。

 

京王線明大前駅」「高井戸駅」のどちらから歩いても10分以内で到着。

複数ある同名神社との混同を避けるため「松原菅原神社」と呼ぶこともある当社ですが、東京に数ある天神社、天満宮でも「菅原神社」と称する主な神社は、当社の他に成増町田だけでしょうから、大きく混乱することはないでしょう。

 

▼神社入口の鳥居は一戸建ての住宅の密集した街路に面して建ちます。

狭くて計画性のない道路が多い地域で、そんな道路は街路樹も少ないなか、こんもりとした豊富な緑に行き合うとホッとさせられます。

車で訪問の場合は境内北側から境内に侵入できる入口があります。

村社」の文字が残されている社号標の脇に「せたがや百景」の案内。

説明文の引用です。

境内に朱塗りの社殿が目立つ。江戸時代、石井兵助という人が寺小屋を開き、学問の神様である菅原道真公を祀ったのが始まりだろうと伝えられる。いまも学業祈願、合格祈願の絵馬札がたくさん下がっている。

この百景の説明文が当社の全てを、古例j脳になく簡潔に要約しています。

 

▼参道途中左手に「手水舎」。

▼柄杓が用意されているのが当たり前の姿ではなくなってしまった昨今では、妙に嬉しくなってしまうのもヘンですが、やはり清めは柄杓が必需品です。

▼住宅街のコンパクトな神社ですので参道を進むとすぐに拝殿にたどり着きます。

▼ユニークな表情の狛犬がお出迎え。「大正」の年号が刻まれていました。

▼ん? 相当ボケてます? 嫌われてしまったようです。

狛犬の手前の小さな祠は「大黒恵比寿社」のようです。

▼その脇におなじみの「撫で牛」。

▼1100年前、牛車を引いた牛が動かなくなったのは、のちの太宰府天満宮前でした。

道真が誕生したのは「丑の年の丑の日の丑の刻」という面白い伝説もあります。

▼社殿が造営されたのは戦後の昭和。

かつての荏原郡松原村の鎮守は1665年、当地で寺子屋を開いていた人物が、学問の神である菅原道真を勧請したことに始まると伝わりますので400年の歴史です。

学問上達を祈願するにはいささか遅い身ではありますが、

新しく何かを始めるのに遅いということはなく、年齢も関係ないでしょう。

▼鈴棒を振って、学問の神様にご挨拶申し上げます。

▼コンクリート製の社殿ですが、グッと張り出した向拝が単調さを打ち消しています。

▼本殿も綺麗に維持されている様子がうかがえます。

▼拝殿の基壇上から見た社務所

▼重いか、軽いかの「願い石」は灯篭の擬宝珠部分の石を持ち上げる。

持ち上げる時、落とした人があるのか擬宝珠は欠けたり、ヒビがあったりです。

 

▼社殿左脇に境内社が二社。

▼「御嶽神社」に「稲荷神社」でした。

▼社殿左手奥に「せたがや百景」の名に恥じない美しい区域があります。

▼「厳島神社」です。

▼箱庭のように美しく整備された一画は、手入れの大変さが伺われます。

神橋に池、祠が見事なハーモニーを奏でています。

澄んだ水の中で鯉たちも満足げに遊泳。しあわせな魚たちです。

▼地域柄「明大」合格の祈願の奉納絵馬もあるかもしれません。

▼「楽殿」も鮮やか。なぜかイヤミを感じさせられる色合いではありません。

▼神社入口脇にある「絵馬殿」も当社の百景に加わっているのでしょう。

▼何の車輪でしょうか? 牛車?

▼取ってつけたような、さりげない木鼻ですが精巧緻密。

▼正面の壁に取り付けられている透し彫りは、中国の故事を表している?

▼天神社に欠かせない梅の木が描かれた絵馬。

絵を眺めて、文字を追っていると時間がアッという間に過ぎていきます。

▼学問の神を祀る神社でも、かつては目に見える力持ちが讃えられたのでしょう。

▼世田谷区松原一丁目からはじまる神輿庫。

鳩たちは正直者で居心地の良いところにしかたむろしません。

 

狛犬と牛がいて、鯉、鳩、そして人が集い、寒椿も咲き誇るステキな神社でした。

旗岡八幡神社の御朱印(東京・品川区)〜源氏から徳川まで武家の崇敬篤かった歴史に触れる

旗岡八幡神社御朱印

はたがおか はちまん じんじゃ主祭神応神天皇(東京都品川区旗の台3-6-12)

 

旗岡八幡神社御朱印です。

右下の印「祈 虎慮那退散」は最初どのように読むのか悩まされました。

寅年に関連?

カンの良い人はすぐわかったでしょう。「コロナ退散」でした。

 

御朱印は社殿右手の社務所授与口でいただきました。

 

▼当社へは2路線が乗り込んでいる東急線旗の台駅」から500mほど。

大井町線の「荏原町駅」からなら、ほぼ駅前という距離です。

 

当社の起こりは1030年、源頼信下総国の「平忠常の乱」を平定するために、下総に行く途中この地に宿営し、八幡大神を奉り戦勝を祈願したのが発祥とされています。

当時この地に陣を張り、源氏の白旗をなびかせて武威を誇ったとされ、そのことが「旗の台」や「旗岡」の地名の由来になっていると言われています。

 

頼朝をはじめとする源氏の武将が白旗をなびかせて、

戦勝祈願などをしているのは「白旗神社」などが有名ですが、

そんな意味合いの神社と大きく違わない「旗岡八幡神社」なのでしょう。

 

▼当社は江戸時代まで「中延八幡宮」と呼ばれ、別当を「法蓮寺」が務めていました。

当社と別当寺の位置関係は現在もそのままです。

旗の台駅方面から神社に向かう、ゆるい坂の途中にある「法蓮寺」に道草してみます。

法蓮寺は日蓮宗の寺院です。

▼そして「荏原七福神」の恵比寿が祀られていて、正月は大変な賑わいになります。

▼「荏原七福神」の記事。

 

駅は近いものの普段は静かな境内です。

▼寺を出て坂を上り、神社に向かいましょう。

旗の台駅のゴチャゴチャした喧騒からは、少し歩けばすぐに解放されます。

▼そんな静かな緩い坂に、社号標と石段が向き合っています。

▼広い参道なので、その左右にある狛犬を見逃しそうになります。

▼江戸時代後期の造立で、親しみを感じさせられる表情にも見えます。

▼石段、狛犬の先に朱色の大鳥居は、写真では感じられませんが巨大です。

▼その大鳥居下の石灯篭も古そうで、傷んでいます。

▼「天明」などの文字がくっきり見えます。天明年間は1781年から89年。

手水舎が木の柵で囲まれているのは近寄りがたいのですが、水は出て清められます。

▼手水舎を過ぎた参道途中から大鳥居を振り返りました。

▼境内北側にもう一つ木製の鳥居が建ちます。

車訪問の場合はこの鳥居をくぐり駐車できます。

社殿は戦争で全てを焼失したのちの昭和にコンクリート造りで再建されています。

創建後の鎌倉時代の源氏から江戸時代の徳川まで、武家の崇敬が篤かったことを物語る建物や文物の多くは残念なことに戦災で失われています。

▼社殿前は現代型の狛犬が持ち場を保っています。

1000年前に旗揚げした源氏の勇者たちに変わり、現代の3歳、5歳、7歳の幼い者どもが将来の勇者を祈願をします。

七五三は11月15日までに祝うものと思っていましたが、最近はあちらこちらで15日を過ぎても家族で参拝する姿が見られます。

それぞれ都合があるでしょうから、七五三も11月中の祝いは許容範囲でしょうか?

▼本殿の様子は撮影にいい角度が得られませんが、2つの屋根が連続しています。

▼大鳥居をくぐった左手に「絵馬殿」がありますが、やはりフェンスに囲まれて内部に入って内側を見ることはできません。

昭和初期に造営されていますが、その後の戦災を免れ現存しています。

当社で唯一の戦前の貴重な建造物だそうです。

傷みと色褪せが激しい絵馬ですが奉納時の鮮やかさが偲ばれます。

▼こちらは「楽殿」。

▼新し目の「神輿庫」。

▼素晴らしい神輿が輝いています。2022年には4年ぶりの大祭で宮神輿渡御が行われたそうです。

 

春には桜の名所ともなる境内を持つ当社はかつては武家の、現在は氏子の崇敬の念が篤いことがうかがえる良い神社でした。

稲荷社などの境内社が一社もないのが、ちょっと不思議でもありました。

品川貴船神社の御朱印(東京・品川区)〜変わりゆく大崎の南に 変わらぬ地域の鎮守

品川貴船神社御朱印

しながわ きふね じんじゃ主祭神:貴布裲大明神(東京都品川区西品川3-16-31)

 

品川貴船神社御朱印です。

御朱印ベースに水神である龍神がデザインされています。

右上の特徴的な書体の文字は「和銅弐年創建」。

左上の馬のような印は何かと思いましたが、よく見ると「アマビエ」でした。

 

社務所での御朱印案内。

御朱印は社殿右手にある社務所窓口でいただきました。

 

▼当社へは山手線の駅でも知名度の低い「大崎駅」から徒歩10分以内です。

神社の鎮座する住所は「西品川」ですが、大崎駅の方が近く、品川駅からは離れているので品川というイメージとは結び付けにくい位置にあります。

そして神社の西、「西品川」のさらに西は「戸越」になります。

一帯のその昔は「三ツ木」と呼ばれる村でした。

その名称は神社に隣接する小学校などに残り見られます。

 

▼大崎駅周辺と神社周辺では高低差が15mほどあるので、車ですと幹線道路から住宅街の細道を登るように進むことになります。

▼そんな地域では人々の駐車場の確保も困難で、こんな涙ぐましい努力の様子も見られます。

▼北方向を見上げればタワマンがニョッキリです。

▼そんな住宅街の細い道路を不安気にクネクネ曲がり進みますが、ここまでくればもう安心。車の左右をぶつけないように、ここを右折して境内に進入です。

▼参道の脇が駐車場となっている場所に出られます。

もしかしたら月極めの駐車場かもしれませんが、空いていて短時間の参拝なら問題ないでしょう。

▼先ほどの進入路の先に進むと、ここからでも境内に入れます。

ここを入ってしまうとまさに社殿前の境内。参道脇の駐車場とは車では行き来できませんが、数台は駐められるスペースがあります。

参拝者の歩行の妨げにならなければ駐車してもお叱りはないでしょう。

 

▼神社の正面入口は南側にあり、石造りの「一ノ鳥居」が建ちます。

▼鳥居の扁額は「貴舩神社」と刻まれています。

▼社号標は「貴船神社」。

▼社号標の脇に存在感たっぷりに建つ、膨よかな像は布袋でした。格差ある大小三体。

説明板によれば「国際自動車」の創始者である波多野元二が社屋に造り祀っていたものが、ここに移されてきたそうです。

成功者や力あるものは自社の屋上や敷地内に稲荷社などを造立し、成功の継続やさらなる高みを祈ったのでしょう。

国際自動車」の場合は稲荷社ではなく布袋さんだったわけです。

 

▼一ノ鳥居のすぐ先に現代型の狛犬が一対。こちらはトボけた表情。

▼阿形は口を開けて迫力を見せているものの、どこか愛嬌を感じます。

▼車を駐めさせていただいた駐車場と参道が平行して長く延びます。

▼「ニノ鳥居」です。

▼「由緒書き」です。その内容は・・・

当社は元明天皇の御代和銅2年9月藤原伊勢人の勧請に依り創建せられ、当地方最古のお宮であります。
御神威は古来より誠に広く深く、品川(旧三ツ木村)の鎮守として氏子の崇敬厚く昔から信仰の中心として永く栄えて参りました。
御社殿は昭和20念5月戦災を蒙りましたが、西品川氏子六地区の崇敬奉賛の熱意により再建せられました。

引用の実際は、算用数字が漢数字、旧字が使われて書かれていました。

和銅2年」は709年ですので、1300年以上前の古社ということになります。

都会にある古社は様々な変遷をたどることも珍しくありません。

そして年月の経過とともに、その詳細がアヤフヤになっていくのが当然です。

創建の1300年前から現在のこの地に鎮座していたのかさえアヤフヤでしょう。

創建後に呼ばれていた「貴布裲大明神」は、1803年に現社名に改称されています。

▼社殿前の手水舎の水は枯れていました。

▼社殿の後方はタワーマンション。東京ならではの社寺の景色です。

空襲で失われた社殿は昭和になって再建されたコンクリート製。

▼祭神の高龗神、素盞嗚尊に二拍手します。

▼細い道路に出て境内の北側から見た本殿。

境内社は社殿左手にまとめられていて「三木稲荷」は90度の角度で鳥居が2基建っています。

▼こちらが正面。

▼「三ツ木稲荷神社」のほかに「大山祇社」「満潮宮」が合祀されています。

満潮宮」というのはなんでしょう? かつてのこの地は江戸湾にもっと近かったでしょうから、そんな海との関連でしょうか?

▼年月のせいか、石材のせいか神狐たちは相当傷ついています。

境内社にしては立派な社殿も昭和の再建。

▼稲荷神社の脇に「祖霊社」。

▼祖霊社の脇に観音菩薩梵字と「西 めくろ」の道標。「めくろ」は目黒でしょう。

▼道標は文政年間の「観世音菩薩供養道標」であることの説明がありました。

▼「右 南品川」と「左 北品川」。

詳細な地図などなかった時代、かつては人々の往来の多かった道に建てられたのでしょう。

▼何代目かの宮司さんによる歌碑のようです。

▼オープンなスタイルの神輿庫は内部がよく観察できます。

▼撮影はガラス反射していますが、精密な立派な神輿が覗けました。

 

1300年の歴史を持つ神社の現在は、地域の鎮守として氏子たちの崇敬を集めている様子が伺えました。

 

貴船神社から500〜600mの地に鎮座する神社の記事。


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