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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

三光神社の御朱印(大阪・天王寺区)〜真田丸跡に立つ「幸村」に逢いに行く(下阪 御朱印 Tour---❻)

三光神社御朱印

さんこう じんじゃ主祭神天照大神大阪市天王寺区玉造本町14-90)

神職さんから「大阪七福神」を案内いただき、見開きで直書きいただきました。

600円を収めました。

今回の大阪御朱印巡りでは、ありがたいことに一部を除いて直書きが基本で一体300円でした。

数年前の御朱印巡りのような気持ちになりました。

東京の多くは500円。それもプリント物の書置き御朱印の場合もあり、御朱印インフレ率は東高西低。

 

三光神社御朱印

真田山」は鎮座地を表し、真田氏の家紋「六文銭」のスタンプも押されています。

中央の印は「摂津國 三光神社 真田山」。

 

大阪七福神「寿老神」御朱印

「大阪七福神」を巡る予定はありませんでしたが、「今宮戎神社」にも参拝したので

結果的に「寿老神」と「えびす神」を得ることができました。

 

▼前回記事「玉造稲荷神社」から500mもありませんでした。

しかし神社の鎮座地はいつの間にか「中央区」から「天王寺区」に変わっていました。

変わっていないのは、ラーメン店で雨宿りしたものの降り続く雨でした。

 

▼荒れ模様の雨の中「北参道大鳥居」に到着。

こんな天気なので参拝者は誰も見当たりません。

 

▼鳥居左手前に「国家安泰平和祈願」の文字が刻まれた「片柱の鳥居」。

当社も大戦の戦火で全てを焼失して、大鳥居も片方の柱を残すのみになったそうです。

したがって当社の建物はすべて戦後に再建されたものです。

各地の神社、とりわけ都市部の社寺の多くは戦火に見舞われています。

しかし、その多くが戦後に再建されていることが等しく満遍なく全国に見られることを思うと、日本人の神社や寺院に対する崇敬、信仰の深さ、絶え間無さを感じます。

▼真田山参道の新緑は、少し小降りになった雨に濡れて気持ちよく輝いています。

▼参道途中に末社三社の案内。

中央に書かれた「武内宿禰」は長寿の神を祀るのですが、

武内宿禰(たけしうちのすくね)」は記紀に記される人物で、その末裔の武川氏が創建以来、神職として奉職し、現在は86代目と伝えられています。

 

▼本殿参拝前ですが、鳥居もある末社に進んでみます。

▼あれっ!と思わされるほど呆気ない末社の佇まいに、思わず他に社があるのではと見回しますが、こちらが「稲荷社」「武内宿禰」「野見宿禰」でした。

▼当社鎮座地の真田山は、言うまでもなく大阪冬の陣で「真田丸」が築かれた地であり、激戦地でした。

六文銭」と「真田丸」の文字が染められた幟が新緑の中、ひときわ目立ちます。

 

▼こちらは「東鳥居」。

▼「東鳥居」から進んで石段の手前を左に入ると・・・

▼「幸村像」と大阪城に抜けられると伝わる「真田の抜け穴」。(▼写真は三光神社

雨の中の片手スマホでの撮影は失敗が多く、「幸村」に逢いに来たものの、肝心のその写真は使い物になりませんでした。

で情けないことに「三光神社」のHPからお借りしました。

まぁ「真田の抜け穴」の真偽のほどは定かではなく観光的要素もあっての存在かもしれません。

同じ天王寺区の一心寺にも「真田の抜け穴」井戸跡というものがあると聞きます。

 

▼参道に戻って社殿に向かいます。

▼石段先の社殿に近い最後の鳥居をくぐります。

▼ひどい天候で残念ですが、社叢もとても豊かで木花も多く雰囲気最高。

▼「手水舎」は水無しでしたが、温泉地で見られるような出水口。

▼その左隣に七福神の「寿老神」がズブヌレ!

▼傘の下から覗かねばならぬ「拝殿」は、降りしきる雨の中、シャッターを切るのが精一杯!

▼幸村の姿でしょうか、雨中で青森のネプタのように光り輝き、一人奮戦!

NHK大河ドラマ真田丸」が放送を終え6年が過ぎても、やはり一人奮戦!

NHK真田丸」放送期間中は、さぞかし多くの参拝者、訪問者があったことでしょう。

▼覆屋に守られ見られない本殿のように・・・

 

400年前の「真田丸」や「抜け穴」は、特定と真偽を定めるのは難しいようです。

それでも学者たちにより一つ一つ確定されていきますが、

言い伝えだけであっても大いにPRすべき「真田丸三光神社」でいいでしょう。

応援します!

 

 

▼関連ありませんが「三光稲荷神社」の記事。

wave2017.hatenablog.com

玉造稲荷神社の御朱印(大阪・中央区)〜「玉造人」たちと「秀頼」に逢いに行く(下阪 御朱印 Tour---❺)

玉造稲荷神社御朱印

たまつくり いなり じんじゃ」主神:宇迦之御魂大神大阪市中央区玉造2-3-8)

 

玉造稲荷神社御朱印

筆書きは「玉作岡(たまつくりのおか)」。神社の正式名称は単に「稲荷神社」です。

 

▼社号標の先にも「玉作岡」の石柱が建ちます。鎮座地の住所も最寄駅も「玉造」。

▼いただいた紙製の「勾玉栞」。

ここまでくれば「玉造」「玉作」の意味がわかります。

神社周辺は古代、

三種の神器である「」を造る技術集団「玉作部」が居住していた事から神社名の起こりとなり、そしてここは今で言うところの「上町台地」である事から「玉作岡」となっています。

 

▼前回記事の大阪城から歩きましたが、1.5kmもなかったように思います。

 

▼「豊国神社」が鎮座する大阪城公園を後にします。

別れを告げた城を名残惜しげに振り返れば、地元の女子高生らに笑われそう!

 

▼風も強くなってきて足元のシューズをビショビショにしながら歩いていると住宅街の先に目的の神社が見えてきました。

▼冒頭に掲げた「玉作岡」の石柱が建つ表参道に向かいました。

これまで御朱印巡りの旅では10年間くらいの中で、本格的な雨に出会ったことがなく幸運でしたが、今回のこの日ばかりは大当たり!

何回も旅に出れば、何回かは雨に会って当然でしょう。

▼「神威照天地」「福寿満山海」の文字通りですから理解が易しいでしょう。

神社の言い伝えによれば創祀は紀元前になるので、現実的には不詳かつ全くの古社と言う事でしょう。

勾玉作りの時代からの伝承ですので不確かなことばかりですが、

当社は聖徳太子の祈願、豊臣、徳川の崇敬と保護を受けたものの、その間何回も神社の建物は戦火などにより焼失したそうです。

▼社殿も最終的には大阪大空襲で全てを失い、戦後に再建された建物が現存。

▼拝殿前の狛犬たちは雨に濡れて色を濃くしていますが、それほど古い造りではないでしょう。

前回記事でも記していますが、背中にリュック、左手にビニール傘、右手にカメラ代わりのスマホ

ピントも、ブレも構わず闇雲にスマホカメラのシャッターを押すものの、撮影結果は散々。

今回の旅は、安物の重い一眼レフを持ち出さず、古いスマホiphone「SE」をカメラ代わりに使用。

さすが現使用の「X」とはカメラとしての使用のクォリティは違うようです。

 

▲▼境内社の市杵嶋姫命を祀る「厳島神社」です。

▼「白龍池」に観音さまが現れ、雨乞いの神とされてるそうですが、現在雨はたっぷり降り注がれています。

▼「万慶稲荷神社(まんけんいなりじんじゃ)」と「新山稲荷神社しんやまいなりじんじゃ)」。

戦国時代から江戸時代に大阪城内や武家屋敷内に祀られていた稲荷社がここに集められています。

▼狐たちも雨に濡れながら何やらヒソヒソ話。

▼こちらは読みが難しい「胞衣塚大明神」。「よなづか」と読みます。

胎児を包んでいた膜や胎盤のことを「よな」と言い、豊臣秀頼淀殿から生まれた時の胞衣(よな)が祀られています。

雨はますますひどく、風も強くまるで嵐状態になってきて、とてもゆっくり参拝できる状況ではありません。

 

▼資料館や秀頼奉納の鳥居などなど、この神社はまだまだ見所いっぱいなのですが、残念ながら嵐のため写真も撮らず、見逃した箇所も多数。(▼写真は「玉造稲荷神社」

「玉造人」と「秀頼」に逢いに行く、と題していますが、アラシのため

ほとんどすれ違ったに過ぎないような参拝に終わった玉造稲荷神社でした。


しかし御朱印がいただけただけでも幸いでした。

 

▼午後1時過ぎ、嵐の雨宿り! 朝早かった新幹線内での弁当以来でハラペコ。

行き当たりばったりで入店したのですが、地元では有名店のようでした。

▼シンプルなラーメンと唐揚げをオーダー。

麺、スープ、具材とも文句なし!

何と大阪でラーメン食は初体験、とっても美味しかった。

▼それにしてもこのネーミングは意味不明な摩訶不思議?

ファンタジスタ、トランジスタ、「メンタジスタ」なのでしょうか?

ゴチソーさまでスタ

 

豊国神社の御朱印(大阪・中央区)〜天下人「秀吉」に逢いに行く(下阪 御朱印 Tour---❹)

大阪城 豊国神社御朱印

ほうこく じんじ主祭神豊臣秀吉・秀頼・秀長(大阪市中央区大阪城2-1)

豊國神社」は京都が本店?いや代表的な存在で、秀吉出身地の名古屋にもあり、

どちらも「とよくにじんじゃ」ですが、こちらは音読みで「ほうこくじんじゃ」。

同じ読みにしてほしいものですが、なぜそうなるのか分かりません。

 

それにしても書置き御朱印とは言え、呆れるほど素晴らしい筆跡です。

 

授与所には何種類かの書置き御朱印があったと記憶しますが、スタンダードを一体いただきました。

今回訪問中の大阪では都心部ながら書置きは極少数の寺社だけでした。

東京の都心部なら逆に直書きが少数派になるでしょう。

 

豊國神社大阪城公園内に境内を設けています。

大阪天満宮」を後にして歩け歩け!

この日最大の移動距離2.5km以上ありました。

少し小降りになりましたがまだ雨は降り続いています。

 

▼途中、大川沿いにあった「南天満公園」に降りてみると、子守お姉さんのブロンズ像濡れていました。

▼刻まれている歌詞らしき文字は「天満の子守歌」。

ねんねころいち 天満乃市よ 大根揃へて 舟に積む ・・」

誰も知らない子守歌!

後で調べました。

かつての江戸時代に、この大川沿いに大阪三大市場のひとつとされた天満青物市場があったそうです。

市場の情景が描写され、働く家族を見ながら留守に子守する姉弟かもしれません。

 

▼子守歌ではありませんが、昔「面影橋から」という楽曲を思わず思い出しました。

及川恒平が歌う歌詞は「面影橋から天満橋天満橋から日影橋・・・切って捨てよか大淀に」と続きます。

及川恒平? 誰も知らない? 「六文銭」と言えばわかるかしら? 及川はそのメンバー。

 

天満橋大淀という歌詞から、てっきり大阪を歌っている曲かと思っていましたが、

面影橋」は東京の神田川にはありますが、大阪にはありません。

 

歌詞はさらに「いにしえ坂から わらべ坂 わらべ坂から 五番坂」と続きますので、

どうやら曲「面影橋から」は具体的な橋を示すのではなく観念的な表現のようです。

どっちにしても歩いた、歩いた!「天神橋から 天満橋」。

▼そして、やっと見えてきた大阪城

▼「大手前」だからもう一息!

▼かつて車窓からの眺めしか経験のない大阪城。外堀沿いに歩け、歩け!

▼「大手門」に引き込まれました。

▼「大手門」をくぐると直角に曲がって「多聞櫓」。

▼そのまま城内を東に進むと目的地が見えてきました。

豊国神社は当初、京都・豊国神社の大阪別社として明治期に建立されています。

京都の豊国神社も明治天皇の命により再興されています。

秀吉没後に建立された豊國神社ですが、豊臣家滅亡とともに家康により豊国大明神の神号は剥奪、神社自体も廃絶され、江戸時代には豊国神社は存在しませんでした。

 

とことん「豊臣」の臭いと力を封じ込めたは、それだけ家康にとっては脅威だったかもしれません。

▼「家康くん、ワシは蘇ったぞ!」

▼「フーッ、ヤレ、ヤレ!」

大正時代に京都 豊国神社から独立して、その時に神社名が「とよくに」から「ほうこく」に変えられています。

暖簾わけ」ではなく、独立するものに同じ名称は使わせない、という事だったかもしれません。

▼拝殿前は巫女さんに黒スーツ姿の参拝者らしからぬ人たちが・・。

▼マイクロバスが人を運んできて、どうやら雨の日の「出世開運神社」での結婚式。

▼で、部外者は遠巻きにするものの、参拝もままならず少し「狛」りました。ジャマしないように脇から参拝。

大阪城側の「裏鳥居」です。まさにシットリ。

境内社の鳥居。

▼「宇迦御魂神」を祀る「若永神社」。

▼「白玉神社」などの相殿。

結婚式に追い立てられるように慌ただしい参拝で神社を出ました。

 

▼その時間差分だけ「太閤はんのお城」を眺めていきましょう。

▼「桜門」を入ります。

寺社や城、城址は歴史の生き証人とも言えるでしょう。

残されているものの一つ一つが歴史を証明しています。

 

想像力豊かな人が、それらに想いを馳せるのは楽しいに違いないでしょう。

▼桜門、枡形にある「蛸石」の重量は約130トンと推定されています。

しかし、歴史が極端な観光にされてしまう場合があり抵抗を感じます。

本ブログは単に「ヘソマガリ」ですので、皆さんは大阪城をお楽しみください。

大阪城天守は昭和初期にコンクリート製で再建されたもの。

ですが、諸外国の「城」とは全く違う姿をしているので、外国からの観光客たちに人気なのも分からないでもありません。

約400年前にこの天守で家康が撃ち放った砲弾が炸裂したかと思うと、感慨深いものがあるのは歪めません。

櫓や堀、石垣などは江戸時代に再築されたものが現存されています。

それにしても幅広く深い堀です。ここを攻めるのは容易ではないでしょう。

そして後に埋め尽くされたのですから、土、石に限らず何でもブチ込まれた事も分からんでもありません。

メジャーな観光対象は嫌っているくせに、これだけ大阪城の姿をスマホに収めたのですから「ヘソマガリ」も極まりです。

 

神社での結婚式をジャマしたくなく、早々に秀吉に背を向けた「豊国神社」でした。

 

▼京都、名古屋の「豊国神社」記事。

wave2017.hatenablog.com

大阪天満宮の御朱印(大阪・北区)〜「てんまのてんじんさん」に逢いに行く(下阪 御朱印 Tour---❸)

大阪天満宮御朱印

おおさか てんまんぐう主祭神菅原道真大阪市北区天神橋2-1-8)

大阪天満宮御朱印です。

▼「梅鉢紋」をデザイン化した御朱印帳を購入して、1ページ目に書かれていたものですので通常の御朱印でしょう。

御朱印はこのほか書置きが数種類ありましたが、御朱印巡りとしては初体験の大阪。

いただくのは基本の通常御朱印だけで十分でしょう。

もとより本ブログはニギニギしい限定御朱印を「あれも、これも」と追わない性格なのでよしなに!

▼授与所に牛乳瓶の蓋にようなものが・・? 「願い玉」と言うそうです。

境内の端にある「星合池」に浮かぶ5色の梅の花のオブジェに、自分が選んだ「願い玉」と同色の花に投げ入れられれば願いは成就するそうです。

「かわらけ投げ」の変形スタイルですね。

 

御朱印は境内に入って右手「手水舎」の先の「授与所」でいただきました。

 

▼「太融寺」から1km以上歩きました。

▼「曽根崎通」から「天神橋筋商店街」の入り口が見えました。

▼おそらく日本一長いアーケードの商店街。

南北に2.6kmほどは雨に濡れずに移動できるでしょう。

▼目的の天満宮の「参詣道」でもありました。

しかし、すぐにアーケードから外れて左に折れなければなりませんでした。

▼すると、いきなり右手に神社入口が現れました。

▼「北鳥居」になるようです。

▼一旦境内を横切って南側にある「蛭子門」に向かいました。

▼「大阪 ガラス発祥之地」。

現代では安い輸入品などに押されて、すっかり衰退してしまった天満のガラス産業は、昭和初期頃までは多種多様な製品を作り出していて、業者の数は東京を凌いでいたそうです。

 

▼文字が切れてしまっていますが「御神酒笑姿」は「おみきえびす」と読む。

関西ですので「えびす祭り」は、東京の「酉の市」のように賑やかでしょうね。

 

▼「蛭子門」から境内に入ると、いらっしゃいました。

天満宮で「撫で牛」は東西共通のようで、すっかりハゲ上っていました。

 

▼雨が激しくなった中、正面となる「表大門」に回ります。

▼大きな注連縄の先にカラフルで巨大な「十二支方位盤」が天井から下がっています。

▼ン〜〜〜ん、直径 2mはないかな?

▼目をこらすとの位置には鳳凰が。鷲、鳳とも表されるからかな?

実のところは道真が太宰府に左遷される時に詠んだ歌

鳴けばこそ 別れをいそげ 鶏の音の 聞こえぬ里の 暁もがな」にちなみ、

鶏の鳴き声に無念の出立を急き立てられるかのような歌であるため、鶏は用いず、大阪天満宮では鶏卵もお供え物にしないとか。

 

▼「表大門」をくぐるとすぐ右手にあります。

右の小さな社は、大阪の名水と言われる御神水をまつる「黒土祠」。

左手前の「神水」は、月に3日間だけ扉が開けられ御神水がいただけるとか。

 

▼やっと拝殿に向かいますが、雨がヒドイ!

▼拝殿雨は水溜りができてしまっています。水はけの良い砂利敷きなのに・・。

背にリュック、右手にスマホ、左手にカサですが、ほとんどビショビショ!

▼それでも大阪の道真さんに「東京から逢いに来ました」とご挨拶!

大阪天満宮は650年、現在は境内社となっている「大将軍社」を孝徳天皇が創建したのが始まりだそうです。

後に道真が太宰府に向かう途中、旅の安全祈願に立ち寄ったと伝わります。

社殿は大阪大空襲の難から逃れられていて、江戸時代の再建が現存。

 

▼「登竜門」は東西に二つあって、えびす祭りなどの日に本殿を通り抜けて参拝できるそうです。きっと道真とご利益を間近に接近できるのでしょう。

▼夥しい数の奉納絵馬。受験生たちのは想いは東西変わらず、東京の湯島天神を思い起こさせられます。

▼社殿を中心に反時計回りに巡ると2時の方向に鳥居。

▼専用と思われる「手水舎」もあります。

▼「白米大神」と書かれた赤い提灯で囲まれています。

雨天のせいかこの周辺には人影は見えず、隔絶されたような区域。

 

▼「白米社」? はくまい? しろよね? しらよね? 分かりません!

▼すぐ脇が「稲荷奥宮」となっているので「白米社」は稲荷社?

▼こちらにも「神牛」が。

▼「神馬」。

▼なかなかの目つきは木造らしい。

▼順序が逆になりますが扁額は「白米稲荷社」。

ここから出て境内飛地のようになっている

▼「祖霊社」へ。ほかに招魂社などの小さい祠が並びます。

▼こちらも逆ですが「祖霊社」から「白米稲荷社」方面に架かる「星合橋」。

▼授与所に置かれていた「願い玉」は、この池の花びら型のオブジェに投げる。

各々の色の「願い玉」を同色の花びら上に乗せるのは難しそうです。

▼再び境内に戻って「十二社」。

大阪天満宮の先祖「大将軍社」。

陰陽道による西北の鎮めとして建立されたとか。

▼「蛭子遷殿はえびすさんの せんでんうつしどの? 意味は仮殿のようです。

 

「てんまのてんじんさん」は雨の中をめぐるには広過ぎ、歩き回って疲れました。

 

 

▼各地を代表する天満宮の記事。

wave2017.hatenablog.com

太融寺の御朱印(大阪・北区)〜大阪城心中「淀殿」に逢いに行く(下阪 御朱印 Tour---❷)

佳木山 宝樹院 太融寺御朱印

たいゆうじ古義真言宗大阪市北区太融寺町3-7)

太融寺御朱印です。

太融寺は「新西国三十三ヶ所」「近畿三十六不動尊」「摂津国八十八ヶ所」などなど多くの霊場札所となっています。

今回は霊場めぐりでなく参拝記念ですので、何も指定せずにお願いしたところ

本尊「千手観音」が祀られている本堂の「大悲殿」が墨書きされた「新西国第二番」の御朱印となりました。

 

▼曽根崎の「お初天神」から500mほど歩きました。

:

▼大阪ではよく繁華街を指すのに「キタミナミ」と言いますが、まだここは「キタ」になるのでしょうか?

「曽根崎」は「キタ」のハズレかもしれません。

東京人にしてみたら「キタミナミ」の範囲や境界がよくわかりませんが、大阪人にとっても、そこらへんは曖昧なのでしょう。

 

▼雨の中、そんなことを思いながら歩いていると、ビルの谷間の先に寺らしき姿。

▼どうやら「太融寺」の山門「西門」のようです。

石碑に「源融公之舊磧」と彫られているのは、嵯峨天皇の十二男である「左大臣 源融」がこの寺の七堂伽藍を整えたことにちなみます。

光源氏のモデルとも言われる「源融(みなもとのとおる)」の一文字をとって「太融寺」と名付られたそうです。

寺の始まりは、それより少し早く821年に弘法大師が草庵を結んだと伝わります。

 

▼こちらは境内南側にある「南門

▼最初に「本堂」の観音さまに挨拶です。

▼おなじみ「大悲殿」は悲しいわけではありません。「慈悲」の心を表しています。

▼「鐘楼」は昭和の再建。

▼雨の中でも境内東側にハデに目立っていたのが永代供養のお堂「八角」。

▼「淀殿之墓」が案内されています。明治期に弁天島からここ太融寺へ移転されたそうです。

▼1615年「大阪夏の陣」で大阪城と心中、自害した「浅井茶々」はこの片隅で静かに眠ります。

壮絶で悲劇的とも言える人生をおくった淀殿ですが、今は六重石塔の下で心安らかかもしれません。

 

▼その近くに「水子地蔵」や「千成地蔵」が並びます。

▼木々に隠れるように建つ朱の鳥居は神社らしき様子。

▼「龍大」は縁結びのご利益があり、多くの女性が参拝するとか。

▼「弘法大師」は厄除けの仕事を引き受けています。若い頃の空海像かな?

▼数多い霊場札所のひとつ「ぼけ封じ三十三観音第七番札所」。

ぼけ封じ」とか「がん封じ」「ぽっくり」などはよく目にしますが、そんな霊場とか観音さまが昔からあったわけでなく、現代の需要に応えて創られたものなのでしょう。

 

▼いずれにしてもここは真剣にお参りしてみましょう!

▼雨に濡れて茶色になってしまっていますが「白衣観音」。観音さまだらけです。

▼三重塔、五重の塔かと思いきや、下層部分は普通の建物になっている「宝塔」。

太融寺の堂宇は大坂夏の陣で灰燼と帰し、再建の後も大阪大空襲で全てを焼失していますので、建物は戦後になってからの再建。

古刹ではあるものの古さを感じさせる建物は見つかりません。

▼込み入った建物の奥に「一願堂」。太融寺の核心部分かもしれません。

この建物の上が三重塔かのように見えた「宝塔」になっています。

多くの参拝者がここまで足を延ばし参拝されていました。

 

▼薄暗い建物の中で黒い影になっているのは「一願ふどう」と呼ばれる不動明王像でした。

▼さらに奥まった場所に「奥の院」。洞窟内に石造の不動明王が祀られています。

▼なんとも可愛らしい稲荷社の「榎木稲荷」。この一画はとても良い雰囲気。

▼片隅に鎮座する「北野弁財天」。

 

さて下阪1日目はまだ午前中。体力も有り余っています。

あいにくの雨でしたが次に向かいます。

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