「つゆのてんじんしゃ」通称:お初天神(大阪市北区曾根崎2-5-4)
主祭神:大己貴大神/少彦名大神/天照皇大神/豊受姫大神/菅原道真
通常御朱印でしょうが、女性の対応で朱印帳にサラサラッと直書きいただきました。
達筆というか「露」の文字は芸術的です。
羨ましいですね!こんな筆文字を難なくかける人は・・。
シールタイプですが、きちんと墨書きされ朱印も捺印された書置きでした。
車での寺社訪問が基本の本ブログでは、これまで大阪の御朱印記事はありません。
今回が初となります。巷の御朱印ブログとしては何も珍しくありませんが・・。
大阪にやってきました。天気予報は的中し街は雨。
京から江戸に行くのは「東下り」、京に上るのは「上洛」などと言います。
現代では地方から東京に来る人を「おのぼり」さんと言います。
では、東京の人間が大阪に行くことは何と言うのでしょう?
調べてみると一番適切なのが「下阪」という言葉のようです。
「げはん」という言葉は「下版」の方がまだしも一般的な言葉のようです。
同じ読みの「阪」と「版」ではまるで意味が違います。
あまり耳慣れない言葉ですが「下阪」して、3日間の御朱印巡りをしました。
大阪の街は御朱印収集し始める前に過去3度ほど訪れていますが、目的拠点だけの訪問がほとんど大阪の街を理解できていません。
今回はトコトン歩きました。
歩いたのは「キタ」から「ミナミ」へと狭い地域でしたが、いくらか地理的に明るくなりました。
▼「新大阪駅」で乗り換え、淀川を越えてJR「大阪駅」へ。そして「曽根崎」まで歩きます。
「大阪駅」も「梅田駅」も東京の田舎者には同じでゴチャゴチャです。
地下街に入いるとgooglemapも案内がままならず、たまらず地上に出ます。
▼目的地に大きくは狂っていなく、間もなくここが目に入りました。
真っ直ぐは商店街入口、右に向けば神社入口でした。
神社訪問の前に午前10時の商店街を歩いてみます。
東京人から見れば、やたらアーケードの商店街が多い大阪です。
どこへ行ってもアーケードですが、さらに迷宮と化した地下街が広がっている街です。
土地勘のない人間は地下は避け、ひたすら地上を歩きます。
▼「お初天神通り」の吊りバナーには「恋のおまいり お初天神で永遠の愛を誓う」という歯の浮くようなフレーズが。
朝10時のこの商店街は、まだお目覚め前のようでした。
でも、雨の日のアーケードと地下街は救いの神でもあるのでしょう。
▼神社入口に戻ります。
後で知ったのですが境内の東西南北に出入口がありました。
▼知らなければ「ろてん じんじゃ」と読みたくなります。「露」の文字が一回り大きいのも納得です。
▼こちらは南側にある鳥居。社殿が正面となるのでこちらが表参道なのでしょう。
当社の創建は定かでないものの起源は6世紀頃と推定されています。
その頃の曽根崎の地はまだ大阪湾に浮かぶ小島だったそうです。
古くは「曽根洲」と呼ばれていたところ、南北朝時代に地続きになり「曽根崎」となったそうです。
▼社殿は戦火で焼失され戦後の昭和32年に再建。
「露天神社」の名称は、道真が太宰府へ左遷される途中、ここで都を偲んで
「露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば」
と詠んだことに因むという説もあるそうです。
▼「露」ならぬ「雨」の中の「撫で牛」。
▼「水天宮」に「金刀比羅宮」。
雨脚が激しくなってきて、なかなかゆっくり落ち着いていられません。
▼境内左手奥に鎮座する御朱印をいただいた「開運稲荷社」。
扁額は祭神の名称の「玉津稲荷」となっています。
百度石とこの社殿の間を100回往復する人が今もいるかもしれません。
▼さて、この神社が有名になり「お初天神」とも称されるようになり、現在では「恋人の聖地」に選定されているのは、この二人の心中事件の実話に基づきます。
▼「お初 徳兵衛」の名前は知らなくとも「曽根崎心中」は、その名前だけでも多くの人が知っているはずです。(▼写真は「国立国会図書館デジタルコレクション」)
江戸時代 元禄年間、大坂堂島新地天満屋の女郎「はつ(21歳)」と、内本町醤油商平野屋の手代「徳兵衛(25歳)」が、
当時広大だった当社の天神の森で情死した事件を元に、その悲恋を劇作家「近松門左衛門」が脚色、人形浄瑠璃「曽根崎心中として発表したところ「恋の手本となりにけり」と大評判の大当たり!
現代に至るまで歌舞伎、映画、小説などさまざまに題材として取り上げられています。
「露天神社」は「曽根崎心中」の事件現場で、そのヒロインの名をとって「お初天神」と呼ばれるようになっています。
▼神社でいただいた栞。
近松門左衛門はそのほかに「心中天網島」なども発表し「心中もの」ブームを起こしています。
当時こうした流行の結果、来世で二人の愛が結ばれることを誓った心中事件が多発したたそうです。
そのため江戸幕府は「心中もの」の上演や執筆、発行を禁止、
また心中者の一方が生存した場合は極刑、双方生存の場合は晒し者にし市民権剥奪、
心中死した遺体は親族に渡さず、葬儀も禁じられるなど心中事件に対して苛烈な処置を行っています。
しかし、その後も江戸四大飢饉や天明の打ちこわしといった事件により、民衆での心中流行はしばらく鎮まらなかったそうです。
「未来成仏うたがひなき 恋の手本となりにけり」と、来世でのかたい契りを結末としている「曽根崎心中」。
当社が「縁結びの社」とされるのも、他の数多い縁結び寺社とは違う正当性を持っているとも言えます。
しかし、この神社を「カップルで訪れると別れる」というジンクスが、まことしやかに口コミされているそうです。
この世で平和そうなカップルは、お初、徳兵衛の羨望と嫉妬を誘うのかもしれません。