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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

露天神社の御朱印(大阪・北区)〜曽根崎心中「お初」に逢いに行く(下阪 御朱印 Tour ---❶)

u 露天神社御朱印

つゆのてんじんしゃ」通称:初天神大阪市北区曾根崎2-5-4)

主祭神大己貴大神少彦名大神/天照皇大神豊受姫大神菅原道真

 

露天神社御朱印

通常御朱印でしょうが、女性の対応で朱印帳にサラサラッと直書きいただきました。

達筆というか「露」の文字は芸術的です。

羨ましいですね!こんな筆文字を難なくかける人は・・。

 

露天神社境内社 開運稲荷社御朱印

シールタイプですが、きちんと墨書きされ朱印も捺印された書置きでした。

 

車での寺社訪問が基本の本ブログでは、これまで大阪の御朱印記事はありません。

今回が初となります。巷の御朱印ブログとしては何も珍しくありませんが・・。

 

大阪にやってきました。天気予報は的中し街は雨。

 

京から江戸に行くのは「東下り」、京に上るのは「上洛」などと言います。

現代では地方から東京に来る人を「おのぼり」さんと言います。

では、東京の人間が大阪に行くことは何と言うのでしょう?

調べてみると一番適切なのが「」という言葉のようです。

げはん」という言葉は「」の方がまだしも一般的な言葉のようです。

同じ読みの「」と「」ではまるで意味が違います。

 

あまり耳慣れない言葉ですが「下阪」して、3日間の御朱印巡りをしました。

 

大阪の街は御朱印収集し始める前に過去3度ほど訪れていますが、目的拠点だけの訪問がほとんど大阪の街を理解できていません。

今回はトコトン歩きました。

歩いたのは「キタ」から「ミナミ」へと狭い地域でしたが、いくらか地理的に明るくなりました。

 

▼「新大阪駅」で乗り換え、淀川を越えてJR「大阪駅」へ。そして「曽根崎」まで歩きます。

大阪駅」も「梅田駅」も東京の田舎者には同じでゴチャゴチャです。

地下街に入いるとgooglemapも案内がままならず、たまらず地上に出ます。

 

▼目的地に大きくは狂っていなく、間もなくここが目に入りました。

真っ直ぐは商店街入口、右に向けば神社入口でした。

 

神社訪問の前に午前10時の商店街を歩いてみます。

東京人から見れば、やたらアーケードの商店街が多い大阪です。

 

どこへ行ってもアーケードですが、さらに迷宮と化した地下街が広がっている街です。

土地勘のない人間は地下は避け、ひたすら地上を歩きます。

 

▼「初天神通り」の吊りバナーには「恋のおまいり お初天神で永遠の愛を誓う」という歯の浮くようなフレーズが。

朝10時のこの商店街は、まだお目覚め前のようでした。

でも、雨の日のアーケードと地下街は救いの神でもあるのでしょう。

 

▼神社入口に戻ります。

後で知ったのですが境内の東西南北に出入口がありました。

 

 

▼知らなければ「ろてん じんじゃ」と読みたくなります。「露」の文字が一回り大きいのも納得です。

▼こちらは南側にある鳥居。社殿が正面となるのでこちらが表参道なのでしょう。

当社の創建は定かでないものの起源は6世紀頃と推定されています。

その頃の曽根崎の地はまだ大阪湾に浮かぶ小島だったそうです。

 

古くは「曽根洲」と呼ばれていたところ、南北朝時代に地続きになり「曽根崎」となったそうです。

 

▼社殿は戦火で焼失され戦後の昭和32年に再建。

露天神社」の名称は、道真が太宰府へ左遷される途中、ここで都を偲んで

露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば

と詠んだことに因むという説もあるそうです。

 

▼「露」ならぬ「雨」の中の「撫で牛」。

▼「水天宮」に「金刀比羅宮」。

雨脚が激しくなってきて、なかなかゆっくり落ち着いていられません。

 

▼境内左手奥に鎮座する御朱印をいただいた「開運稲荷社」。

扁額は祭神の名称の「玉津稲荷」となっています。

百度石とこの社殿の間を100回往復する人が今もいるかもしれません。

 

▼さて、この神社が有名になり「初天神」とも称されるようになり、現在では「恋人の聖地」に選定されているのは、この二人の心中事件の実話に基づきます。

 

▼「お初 徳兵衛」の名前は知らなくとも「曽根崎心中」は、その名前だけでも多くの人が知っているはずです。(▼写真は国立国会図書館デジタルコレクション

江戸時代 元禄年間、大坂堂島新地天満屋の女郎「はつ(21歳)」と、内本町醤油商平野屋の手代「徳兵衛(25歳)」が、

当時広大だった当社の天神の森で情死した事件を元に、その悲恋を劇作家「近松門左衛門」が脚色、人形浄瑠璃曽根崎心中として発表したところ「恋の手本となりにけり」と大評判の大当たり!

 

現代に至るまで歌舞伎、映画、小説などさまざまに題材として取り上げられています。

 

露天神社」は「曽根崎心中」の事件現場で、そのヒロインの名をとって「初天神」と呼ばれるようになっています。

 

▼神社でいただいた栞。

 

近松門左衛門はそのほかに「心中天網島」なども発表し「心中もの」ブームを起こしています。

当時こうした流行の結果、来世で二人の愛が結ばれることを誓った心中事件が多発したたそうです。

そのため江戸幕府は「心中もの」の上演や執筆、発行を禁止、

また心中者の一方が生存した場合は極刑、双方生存の場合は晒し者にし市民権剥奪、

心中死した遺体は親族に渡さず、葬儀も禁じられるなど心中事件に対して苛烈な処置を行っています。

しかし、その後も江戸四大飢饉天明の打ちこわしといった事件により、民衆での心中流行はしばらく鎮まらなかったそうです。 

 

未来成仏うたがひなき 恋の手本となりにけり」と、来世でのかたい契りを結末としている「曽根崎心中」。

当社が「縁結びの社」とされるのも、他の数多い縁結び寺社とは違う正当性を持っているとも言えます。

 

 

しかし、この神社を「カップルで訪れると別れる」というジンクスが、まことしやかに口コミされているそうです。

この世で平和そうなカップルは、お初、徳兵衛の羨望と嫉妬を誘うのかもしれません。

胡録神社の御朱印(東京・荒川区)〜 高層マンション林立に再開発された 元 陸の孤島「汐入」に鎮座

胡録神社御朱印

ころく じんじゃ主祭神:面足尊(東京都荒川区南千住8-5-6)

2022年は金泥文字の御朱印をいただいてきました。

2014年に比べ中央の神社印は新しい印に変更されています。

道祖神」の御朱印は最近授与されるようになったようです。

 

胡録神社御朱印(2022年)。

胡録神社御朱印(2014年)。神紋の「七曜紋」も無くシンプルでした。

胡録神社御朱印境内社 道祖神/2022年)。

▼2022年は社務所の出店のような授与所でいただきました。

神職さん不在で書置きをいただいてくることになりました。

▼書置きに日付は入っていませんので、上に掲載の御朱印の日付は自前です。

▼胡録神社の最寄りはJR・地下鉄「南千住駅」で徒歩10分ほどです。

浅草名所七福神でも有名な「石浜神社」の北1kmほどの位置に鎮座します。

 

隅田川がコブを避けるように大きく蛇行する箇所で、かつては「橋場村汐入」と呼ばれていた地域です。

現在は地名としての「汐入」は残されていませんが、小学校や消防署、公園などにその名が継がれています。

 

▼「神大」方面から汐入地区の景観です。

 

汐入」は平成に入ってからの再開発以前は何も無かった地域です。

何も無かったと言っても、現在もある貨物駅の「隅田川駅」があり、東京ガスのガスタンクだけは目立っていました。そのほかは紡績工場跡や倉庫だけでした。

さらに、この地域に入る一般道路を見つけるのは容易ではありませんでした。

南千住駅」はあってもイメージ的に陸の孤島のような地域だったのです。

 

 

それらの北になる隅田川沿いの狭い一画は、昭和の時代までは昔の下町の佇まいを残していた数少ない場所の一つでした。

 

 

さらに時代を遡って汐入の歴史は、上杉謙信の家臣たちが落ちのびて居を構えたのがはじまりだそうです。

その家臣は高田嘉左衛門といわれ、同志たちとともに地域の鎮守として1561年に「胡録神社」は創建されたと伝わります。

現在も高田姓を持つ住民が多数残っているそうです。

 

 

そして2022年現在、そんな地域の歴史は微塵も見られなくなりました。

高層マンションの住民もほとんどが地域外からの転入者でしょう。

 

 

燃料としての石炭が全盛期の頃は隅田川駅で、地理的に近い山谷の日雇い労働者たちが貨車から石炭を積み下ろしていて、

貨車からこぼれ落ちた石炭を拾い集め、自炊用に使う女性たちの姿もあった地域だったことは、現在の住民たちは知る由もないかもしれません。

 

東京人の中には「南千住なんて住みたくない」と言う人もいるそうですが、再開発された綺麗な街並みを見れば見直されるかもしれません。

 

▼「汐入」地区の話が少し長くなって、ようやく社頭にやってきました。

 

汐入の再開発の影響で神社も少し移動させられたそうですから、境内全体の造営は平成時代でしょう。

 

 

ですので、再開発の地に鎮座するにふさわしい見た目に新しい境内が広がっています。

 

 

しかし地域の住民は同地の歴史に関心がないかのように、この神社にも関心がないのでしょうか?

 

 

神社の周りは高層マンションに囲まれ多くの住民がいて、神社鳥居前も人が多く行き交うものの、境内に入ってくる人は一人も見当たりませんでした。

 

 

平成になってから地域に住み始めた人たちが、地元の歴史ある神社を「氏神」として崇敬するのは、もう少し時間が必要なのかもしれません。

 

 

社務所にも境内にも人の気配がない神社は、昔 約束したヒトが現れなかった、裏切られたようなサビシさが呼び起こされます。

 

▼イベント用には便利そうな広いスペースが余計寂しさを増幅させています。

▼それでも社殿に近づくと「ニノ鳥居」からのシンメトリーな美しさが目を奪います。

何よりは社殿後方は隅田川が近く、バックに高層マンションがないことでしょう。

 

▼堂々と築かれた一対の獅子山の上に親獅子は見えますが、子獅子が見当たりません!?

▼獅子山下に落とされていました。子獅子にはこれから試練です。高い山を登らなければなりません。

獅子は黒ずんでいますので、かなり古いものかもしれません。

▼ニノ鳥居の石段先にも狛犬。こちらは江戸時代奉納造営のようです。

▼コンパクトでも美しい拝殿は昭和初期の造り。

▼龍の彫刻が輝いています。

▼「面足尊(おもだるのみこと)」、「惶根尊(かしこねのみこと)」にご挨拶!

 

▼本殿は嘉永5年(1852年)に改築造営された古いものです。

当社は明治の神仏分離前までは「大六天」と呼ばれていました。

明治以後、武士が矢を支える武具を「胡録」ということや、また汐入で盛んだった「胡粉」作りの「」の字と「大六天」の「」にあやかり、御社号を「胡録神社」と改称されたそうです。

▼社殿右奥に「神饌畑」。「神饌」ではなく「」でした。

▼境内東側にある神社入口。

▼さらに社殿裏側になる北側にも鳥居が建ちます。

▼境内正面側に戻り、左手に御朱印をいただいた「道祖神」と「刀塚」があります。

▼「刀塚」は「塚」というより「祠」になっています。

落人となって汐入に土着した高田嘉左衛門らが、刀と鎧兜を地中深く埋め、刀塚として祀ったものだそうです。

 

▼その隣に「道祖神」。

▼足腰の健康や旅の安全を願う奉納されたワラジや下駄は分かりますが、「お椀」は?

胡粉(ごふん)は牡蠣殻からつくられ、人形やお面、日本画などに用いられた絵具だそうです。

▼かなり大きく重そうな石臼で、これを手で挽くには重労働だったでしょう。

▼「楽殿」や「神輿庫」は、背景に高層マンションが遠慮しません。

▼「社務所」です。

▼「社務所」近くにトイプが繋がれていて、寂しいのかジャレついてきました。

神社で飼われているプードルなのでしょうか? それともヨークシャー?

▼ン〜〜〜〜ん! 目が見えない!! 思いっきりカットしてあげなくちゃ犬も迷惑!

▼ン〜〜〜〜ん! やはり見えない!!

▼再び神社裏側の隅田川堤に出ました。遠方は「汐入大橋」。

南千住駅近くに「LaLaテラス」に寄ってみました。

▼人気の魚屋チェーン店「角上魚類」が入店していたのでコレを買う。

 

獅子に会って、トイプに出会って、マグロに行き着いた胡録神社参拝でした。

東金日吉神社の御朱印(千葉・東金市)〜「一ノ鳥居」を探して進むべし

東金 日吉神社御朱印

とうがね ひよし じんじゃ主祭神大山咋神(千葉県東金市大豆谷860)

右端は「はさみ紙」です。

 

東金日吉神社御朱印「季節」。

東金日吉神社御朱印「通常」。

東金日吉神社御朱印帳。

▼3種類の御朱印が用意されていました。

御朱印帳も3種類。

 

▼JR東金線東金駅」が最寄駅となります。

東金市は人口6万にも満たない小さな市で、東京中心部から50〜60kmに位置します。

ですので、東京人は誰も興味を持たない街。

しかし、今回訪問した日吉神社の「一ノ鳥居」が建つ脇には人造の小さな「八鶴湖」があり、

江戸時代には家康や秀忠が鷹狩に訪れ、東金御成街道、東金御殿なども整備され、宿場町・問屋街として栄えた街だそうです。

そして今も結構見所の多い街でもあるようです。

 

▼その「一ノ鳥居」はパスして、いきなり「ニノ鳥居」にやってきました。

と言うより、車で社寺を訪問すると本来の参道を見逃しがちになります。

例えば、山の上にある社寺は山の下に「山門」や「一ノ鳥居」が建つのは当たり前ですが、車での訪問者を誘導する道は山を駆けのぼらせ、山上にある社寺の裏側などに駐車させます。

そんな地理的な状況が分かっているときは、下にある「山門」や「一ノ鳥居」で車を止めて写真を撮ったりします。

 

しかし、今回も事前知識を得ていませんでした。

▼案の定、神社の駐車場は社殿近くに設けられていて、この「ニノ鳥居」でさえ、そこから歩いて戻りました。

ですので今回は「一ノ鳥居」のへは行っていません。

ホントは、そこから趣のある切通しの参道「山王坂」が続き、この「ニノ鳥居」にたどり着くルートを辿るのが「東金日吉神社」を参拝する王道のようです。

▼夫婦杉でしょうか? googlemapでは「娚杉」と記されていました。

「娚(なぶる)杉」ではなく、やはり「娚」は「めおと」と読むようです。

 

今回はその王道参道を体験していませんが、それでも「ニノ鳥居」からの参道もとても雰囲気があり「来て良かった」と感じられるものでした。

▼その参道途中にある案内板には「大谷八幡神社」。境内社のようです。

▼良く分かりませんが進んでみましょう。

▼100mも歩かないうちに社殿に着きます。

▼八幡さまに挨拶申しあげ、もとの参道に戻ります。

200mの参道は、どれほどの時間か分からないほど樹齢を重ねた杉の古木が、間隔も狭く立ち並び、否が応でも神社の歴史を感じさせられます。

ここを進む時間が日吉神社参拝のイチバンの価値だったように思いました。

 

東金町誌」(1938年)によると、1615年に徳川家康が東金に来た際、時の代官高室金兵衛に命じて、日吉神社を改修させ、これらの杉は、その折に植樹されたものと推察されているそうです。

 

▼この参道の狭さと巨木の配置がたまりません。参道先に社殿が見えます。

▼境内近くの駐車場から進む道は裏参道になっています。

▼当然ですが、裏参道にも鳥居が設けられています。

▼「手水舎」は屋根瓦がいい雰囲気を作っています。

水盤に水はなく、花手水でもありませんでしたが、全体の雰囲気づくりは神社の努力とセンスが見受けられます。

▼「権現井戸」? なぜ「権現」なのか分かりませんが、やはり家康との関係でしょう。

この地で家康の度々の鷹狩り、日吉神社への祈願、そして社殿の造営など家康と関わりの深い神社です。

創建は807年。 最澄が寺院建立にあたり日吉大社から分霊された山王大権現を祀って守護神としたと伝わります。

地域の人たちには「山王さま」と呼ばれ親しまれているそうです。

▼子獅子は妙な姿勢を取っています。親獅子のオッパイを探しているような姿。

▼こちらは思いっきりニヤけています。そう見えるだけ?

狛犬の陰に「神猿」像が一対。どちらも顔を社殿の方に向けています。

神猿像も狛犬も江戸時代に奉納された古いもののようです。

当社はオリジナルHPはじめ、FB、twitter、instaなどSNSもフル稼働しています。

神社経営の熱心さが見てとれますが、そのおかげで訪問者が多く増え、ワタシたちも参拝してみようという気持ちにさせられるのですから、今更ながらSNSの力を思い知らされます。

おそらく10年前頃までは、もっぱら地域の神社でしかなかったのでしょう。

そんな状況は多くの他の寺社でも見られますが、そこにもSNSをうまく利用できない格差も見られます。

魅力ある御朱印など、発信する情報さえ見つけられず困惑している寺社もあるかもしれません。

そこは寺社のセンスによって左右されてしまうのでしょう。

撮影写真には人が映るのを避けていますが、参拝者が切れない春先の午後の境内でした。

▼本殿は覆屋で守られています。

▼神輿のショーケースです。最近こんな姿の神輿庫を多く見かけます。

楽殿も神輿庫もオープンであると神社が「生きて」いると感じられます。

当社を再訪して、その時は「一ノ鳥居」から「山王坂、切り通し、権現滝」などを通りながら参拝してみたいものです。

深澤神社の御朱印(東京・世田谷区)〜空手の気合い響く弁天社に さくら花びらが敷き詰める

深沢神社御朱印

ふかさわ じんじゃ」(東京都世田谷区深沢5-11-1 )

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オーソドックスなスタイルですが、朱印帳にいただいた筆書きは「深澤」の文字の「」が尖っていて印象深い御朱印となりました。

中央の大きな朱印は「深澤神社之印」、左下は「村社深澤神社参拝印」でしょう。

 

▼とっても気持ちの良い御朱印はペンションのような姿の社務所でいただきました。

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ご朱印」「おみくじ」のノボリが立てられていますので、安心できます。

ところが社務所の2階から、何らかの掛け声やドスン、バタンの物々しい音が聞こえ、御朱印どころではないのかと感じましたが、ピンポンに即応いただきました。

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直書き、書置きのどちらでも対応いただける事でした。

そして賑やかな掛け声とドスン、バタンの正体は神社主催の「空手教室」の音でした。

社務所には子供たちのスニーカーが無数に脱がれ並んでいました。

 

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▼当社へは最寄と言える駅は「等々力駅」「桜新町駅」ですが、どちらも1.5kmほどあります。歩くのが嫌な方は「等々力駅」や「駒沢大学駅」からバス利用となります。

深澤神社の鎮座地は世田谷区「深沢」です。

」の文字のつく地名は全国的にも無数にあるのでしょうが、東京にも多く、

特に世田谷区にはここ「深沢」をはじめ「奥沢」「駒沢」「代沢」「北沢」など多く見かけれます。

 

」は文字通り細い川や、短い川、水が溜まり水草などが生えているところを指しますが、」の文字のつく地名は東京23区内でも標高の低い東側にはほとんどなく、標高の高い西側に集中しています。

「自由が丘」や「尾山台」「道灌山」など「丘・台・山」などがつく地名も23区の西側に多く分布しています。

 

東京の地形を思えば納得できる事で、起伏の豊かな武蔵野台地が「丘・台」を造り、その周囲の低いところに「沢・谷」ができるのでしょう。

 

かつての世田の深には、きっと深い沢があったのでしょう。

 

▼神社の東側を走る「呑川」の「沢」から「台」地へ続くように、緩やかな坂道に面して当社の鳥居が東向きに建ちます。

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創建は1564年「三島大明神三島大社)」を勧請しています。

したがって長い間「三島神社」「三島社」と呼ばれていたそうです。

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三島」の名称は隣接する区立幼稚園や公園にその名が引き継がれています。

 

明治以降、深沢村内に点在する七社を合祀したのを機に「深澤神社」と改称されています。

 

▼堂々とした造りの「手水舎」に、堂々とした水盤は1トンくらいありそうです。

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▼しかし除菌液が置かれ、流れる水はなく干からびているような印象です。

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誰のせいでもありませんが、寺社に除菌液、消毒液ボトルほど似つかわしくないものはありません。早く取り払われる時を待つばかりです。

 

空手教室に関連する人たちの車なのか境内には多く駐車されていました。

社殿前にも駐められていて、どうしても車が映ります。

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▼神明造りの社殿はコンクリート製ながら優雅さが感じられます。

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主祭神の「天照大神」に挨拶申しあげます。

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車で参拝することの多い当ブログは、寺社が専用駐車場、もしくは境内に駐車できるスペースを設けている時は本当にありがたく感じるのですが、

▼時にはジャマに感じる時も多々あります。勝手なものです!

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▼白を基調とした社殿は周りの緑と調和して、気持ちの良い美しさを見せます。

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▼そして境内右手には桜が植栽され、参拝時はまさに花びらが散りはじめでした。

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▼桜ではないですが「御大典記念樹」。

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▼社殿右手にピンクの絨毯を敷き詰めた、もう一つの鳥居が構えています。

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▼「レッドカーペット」ならぬピンクカーペットの先は「深澤弁天社」でした。

f:id:wave0131:20220412195413j:plain「市杵島比売神(いつきしまひめ)」が祀られています。

 

▼弁天社に手を合わせたものの、さらに「弁天社参道」の石柱。

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▼その先の参道らしき道を進むと、数メートル下に続く大穴が開いていました。

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飾りっ気を感じなかった当社の奥にこんな素敵な神域がありました。

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▼弁天社に架かる朱塗りの橋なので「弁天橋」でしょう。

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当地は「深」と言われるだけに湧き水や池などが多く、貴重な水が得られたのでしょう。

それを当たり前と思わず、神からの恵みとして敬ってきて形にしたのが「弁才天」のように思います。

▼ここの石窟は弁財天社の「奥宮」的な扱いのようです。

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▼弁天社は古くからあったものを昭和に復興整備、さらに改修されているようです。

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広い空間のある境内は車が何台も駐車されていて殺風景にも感じましたが、

空手教室の子供たちの掛け声、均整のとれた美しい社殿などとともに

何よりも弁天社の奥の院が印象的な深沢神社でした。

 

▼同じ世田谷区内の「・澤」神社の記事。

wave2017.hatenablog.com

 


 

奥澤神社の御朱印(東京・世田谷区)〜右 品川みち 左 めくろみち そして べんてん道

奥澤神社御朱印

おくさわ じんじゃ」(東京都世田谷区奥沢5-22-1)

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パッと見、当初は「奥澤」と読めず、「真深」と読んでしまいました。

武州」は言わずと知れた「武蔵国」の別称です。

8年間で直書きと書置きの差だけで、全く変化のない二体です。

言うまでもありませんが、300円から500円になった事は変化です。

2022年の書置きはプリントではなく、スタンプと墨書きの混合タイプでした。

 

奥澤神社御朱印(2022年)。令和壬寅(みずのえとら)」は令和四年。

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奥澤神社御朱印(2014年)。平成甲午(きのえうま)」は平成二十六年。

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御朱印は社殿左手の社務所でいただきました。

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▼注意書きがビッシリでした。

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またご用の方は「魚板」をたたいてくださいとの案内が出ています。

魚板」は法具のひとつで、神社では珍しい事です。

開梆(かいぱん)」「魚梆(ぎょほう)」「魚鼓(ぎょこ)」とも呼ばれ、渡来した隠元が伝えたとされ、禅寺などでは時間を知らせるのに使用されています。

また「木魚(もくぎょ)」の原型とも言われています。

 

奥澤神社で使用されているのは神仏分離前の名残りかもしれません。

 

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目黒線奥沢駅」から徒歩2、3分。「自由が丘駅」からですと4、5分でしょう。

境内に駐車できるスペースはありません。

 

▼「自由通り」に面して「社号標」と「鳥居」が建ちます。

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▼鳥居には「太い縄」が巻きつけられています。

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▼「太い縄」を正面から見ると藁で作られた「大蛇」でした。

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毎年、奥澤神社の例大祭で行われる、江戸時代から続く厄除けの「大蛇お練り行事」に使用されたものが鳥居に取り付けられているようです。

▼しかし2022年の訪問時は鳥居に大蛇はありませんでした。

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前年の2021年例大祭大蛇お練り行事」は中止されたそうです。

藁で造られた大蛇ですので風雨に曝されれば朽ちてしまうでしょうから、外されたのでしょう。

▼正面鳥居の脇道にもう一つの入口にも鳥居が設けられています。

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やはり注意書きが目立ちます。

 

▼正面鳥居の陰に「品川みち」と「めくろみち」の道標べが隠れていました。 

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▼正面の参道に入ると直ぐに一対の狛犬と、その先に「手水舎」が見えます。

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▼筋骨隆々、勇ましくも現代的な姿は比較的新しい造立なのでしょう。

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▼手水舎脇に神社の概要がわかりやすく説明されています。

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▼手水舎から90°右に向くと社殿正面となっています。

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創建年代は不明ですが、社伝では室町時代に入って吉良氏家臣の大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護神として「八幡神」を勧請したものと伝えています。

したがって当初は「八幡社」「八幡神社」と呼ばれ、明治になって近隣の稲荷社が合祀され現在の「奥澤神社」と改められたそうです。

当初は八幡さまでしたので主祭神は「誉田別命応神天皇)」です。

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神社周辺は住宅街と商店が密集する地域ですが、境内いっぱいに広がる豊富な木々がオアシスのごとく安らぎを与えてくれます。

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昭和時代に再建された社殿ですが、その前に本殿が2度にわたり「九品仏 浄真寺」に移築されて「観音堂」などとして改修されているそうです。

なにやら「浄真寺」と特別な関係があるように想像させられます。

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▼社殿の周囲は水が張られています。

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あまり見かけないスタイルですが、やはり邪気を寄せ付けない結界の役割なのでしょう。

 

▼境内を見て回ります。龍の頭が埋め込まれた塚は何なのか不明。

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▼地蔵さんもいらっしゃいます。別当寺だった「密蔵院」の名残りのようです。

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▼「庚申塔」や「南無大師遍照金剛」と刻まれた石塔は古いものに違いありません。

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▼振り向くと「べんてん道」の標。

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▼大きな木々に覆われた「べんてん道」を進んでみましょう。

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▼ほぼ「自由が丘」という地とは思われないような緑の中を進むと「奥沢弁財天社」です。

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▼とっても雰囲気良く造られた石山と洞窟内に弁財天が祀られています。

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元々は近くにあった湧水池が「奥沢弁天池」の名で呼ばれ、池の主の白蛇が奥沢の田畑に水の恵みを与えていたと伝わり、昭和になって移転してきたものだそうです。

▼刻まれている文字「弁才天」が輝き、艶かしさも感じます。

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▼「八幡神社」の文字が何とか読めます。鳥居につけられていた扁額なのでしょう。

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▼幕末から明治にかけて、後の八幡小学校となった学びの寮が当社で開かれていたそうです。

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▼「楽殿」もそれほど古くはないでしょうが、とっても良い姿をしています。

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▼地域開発記念碑が石灯籠とともに緑に埋もれています。

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高い木々を見上げていると、やはり自由が丘に近い地域とは思われません。

しかし、もう少し都心に近く、山手線内や周辺に鎮座していたとしたら、土地や木々はマンションなどにその座を譲っていた事でしょう。

もちろん地域性のみならず住民の崇敬の深さもそれらを守ってきた一因なのでしょう。

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▼「自由が丘駅」を挟んで当社から直線距離600mもなく、授与される御朱印も対照的な「熊野神社」の記事。

wave2017.hatenablog.com

 

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