▼2025年に入って2ヶ所目の参拝は1月19日の神田神社。
一年中参拝者で賑わう神田明神だが
年が明けた1月中は、1年12ヶ月の中でも、一番の人出になるように思う。
江戸総鎮守であり、大黒、恵比寿、将門を祀る神田神社は、
年始には企業の役員や社員が仕事始め、商売繁盛の祈願に訪れるニュースがTVなどで発信されるが、
もちろん個人も縁結びや商売繁盛などの祈願で人気があるのは、
都心にあり交通至便なことも影響しているのだろう。
いずれにしても、いつ訪れても参拝者で賑わう境内だ。
拝殿前は10列ほどが各列10人ほど並んでいたが、それほど時間は要せず参拝できた。
列は当然、拝殿正面に当たる中心部の列が長くなる。
警備員が比較的空いている左端や右端に誘導していた。
そそくさと一番左端に進んだ。
毎度のことで願い事はせず、感謝の気持ちだけを伝えるので端っこで十分。
神田明神文化交流館「EDOCCO」は、もうすっかりお馴染みになった。
館内も大賑わいで、シンプルな書置き御朱印もここでいただける。
しかし、本ブログの今年は御朱印はいただかない。
代わりにというわけではないが神札をいただいた、1000円。
昨年、富岡八幡宮でいただいた同じような神札は1500円だった。
初穂料でご利益に差があるわけではないと思うから、安いに越したことはない。
もとよりご利益を求める気持ちはないので安いに限る。
授与品を求めるのにまったく一貫性がないが、その程度で良いと思っている。
話は戻って参拝に並ぶか、並ばないか?
そのことについて2013年の「婦人公論」で佐藤愛子が次のように記している。
長くなるが、その引用。
ここ十年くらいでしょうか、新年に神社へお参りに行くと、大勢の人が一列に、
鳥居の外まで並んでいます。
なぜ並ぶんでしょう? どう考えてもわかりません。
もしかしたら、正面から神様と向き合って願いごとをしないと届かないと思ってい
るのでしょうか?正面だろうが横からだろうが、祈る場所なんかどこだっていい。
神の御前では感謝の念を捧げればいいんです。願いごとをするのは勝手だけれど、
神はあくまで精神的な存在ですから。やれよい縁談をとか、入学とか、金儲けとか、物質的なことを言っても届くわけがない。
私が並ばずに横のほうで拝んでいたら、
列のなかから「みんな並んでるんですよ」という女の声がしました。私は「それが何なんですか?」と言って帰ってきましたけどね。
ラーメン屋の行列に割り込んだのとは話が違いますよ。
もう近ごろ、ふしぎに思うことがいっぱいあります、私には。
もっとも向こうでも、私をふしぎな婆さんだと思っているんでしょう。
この隔絶はもう、埋めようがないですね。
10年以上前の記事だが、我が意を得たりの記述だ。
本ブログも多くの参拝で長蛇の列なら並ばない。
もっとも状況次第で今回の神田神社のように並ぶ時間が少なそうな場面では並ぶ。
だがこれまで、拝殿の正面に数列長蛇ができ、その左右に空きがある場合は、
脇から すすっと進み、賽銭箱にチャリン。
数歩下がって並んでいる人の邪魔にならないように手を合わせてきた。
▼だが、こんな場面では左右に空きがないから参拝自体を諦め、次の機会にする。
また、佐藤愛子のように
ラーメン屋の行列に割り込んだのとは話が違いますよ。
と開き直れない場面もある。
あまりに静かで厳かに2、3列で並んでいるような拝殿前では、ひとり脇からそそくさと賽銭箱に向かうのは憚られる。
並んでいる人々に余計な不快感を与えることは避ける。
言葉は適当ではないが、ドサクサに紛れて脇から参拝なら誰も不快に感じるヒマはないだろう。
いずれにしても神に感謝の念を捧げるのは、佐藤愛子の言うように場所はどこでも良いと思う。
だとすると佐藤愛子は、本ブログは、なぜ神社に詣でたのか?
元も子もない話になる。
しかし、神はあくまで精神的な存在であることに間違いはない。
従って遥拝という場所や言葉も理解しやすい。
と言っても、御朱印郵送目的の遥拝だけはいただけない!!!