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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

半田稲荷神社の御朱印(東京・葛飾区)〜キツネたちが飛び交う神域に迷いこむ

半田稲荷神社御朱印

はんだ いなり じんじゃ主祭神倉稲魂神(東京都葛飾東金町4-28-22)

御朱印は下の写真の社務所受付で丁寧に対応いただきました。

筆書きは素晴らしい達筆で、朱印も明瞭で読めない文字はありません。

右下のスタンプは「火焔宝珠」と呼ぶそうです。

一つの火焔の宝珠に梵字を配置する寺院の御朱印を見慣れていますので、何となく仏教臭を感じます。

 

常磐線金町駅」から歩きましょう。15分以内には到着します。

かつての水戸街道の宿場は千住新宿松戸と続きます。

その新宿から松戸に移動するには江戸川の渡しを利用することになります。

水戸街道東海道奥州街道についで交通量が多く、江戸幕府を防備する役目として江戸川の渡船場に関所が設けられていたそうで、江戸時代にはすでに賑やかな町だったようです。

しかし、それより遥か前の古墳時代からこの地域には人々の営みがあったそうです。

 

古墳時代の後の飛鳥時代になる711年に「半田稲荷神社」が創建されたと伝わります。

近隣の「葛西神社」が1185年の創建と伝わるので、当社はそれよりかなり前から存在していた古社ということになります。

▼「一ノ鳥居」から参道を進み「手水舎」を過ぎると「ニノ鳥居」です。

玉垣の白さと刻まれた文字の朱色が鮮やか目に飛び込んできます。

 

▼境内の東側にももう一つの入口があります。

▼車での参拝なら、こちらから入ると境内に数台分の駐車スペースがあります。

▼ニノ鳥居脇には大きく新し目の狐像がそれぞれ宝珠と巻物を咥えています。

▼社殿は江戸時代、尾張徳川の願掛け神社として造立されたそうです。

▼社殿の前にも子狐と宝珠を抱えた一対の狐像。

▼改修されつつも200年近い時間を紡いできた均整のとれた拝殿は風格がにじみ出ています。

▼向拝天井の漆喰レリーフ鳳凰が描かれていました。

▼獅子の木鼻も風化されず、しっかり残されています。

古くから麻疹・疱瘡・安産の霊験で知られ、

江戸時代には「願人坊主」という人々の願いを代行するような人物が、江戸市中で面白おかしく当社を宣伝したことから、たくさんの講中が組まれ、江戸の町衆などとともに常に参詣人が絶えなかったと伝わります。

江戸時代の人々は現代の人よりかなり健脚。

江戸の郊外になる当社へも十分日帰りで参詣できたかもしれません。

繁栄を極めた時代は去り、今は落ち着いた境内に時折地元の人が立ち寄る姿が見られ、地元の「おいなりさん」的な様子を見せていました。

▼社殿左手に境内社が鎮座します。

▼雰囲気的にはこちらの方が、より「稲荷社」が感じられ、当社のパワースポット的イメージです。

▼いくつかの鳥居をくぐると、たくさんの狐たちが出迎えてくれます。

▼大小様々な狐の中には朽ちそうな像もあり、当社の最盛期だった江戸時代の奉納なのかもしれません。やはり狐たちが集まると神秘性を増長させます。

▼歓迎を受けたと勝手に解釈したキツネたちの間に迷い込んだ先には、彼らが守る社が鎮座。

▼「白狐殿」と書かれた扁額は「びゃっこでん」の読みでしょう。

▼「白狐殿」の脇に狐塚らしきものが広がっています。

▼狐たちが飛び回っています。

▼石の祠は当然、最盛期の江戸時代からあるものなのでしょう。

▼「白狐殿」の右側にも古い石祠が二つと小さい社が一つ。

何が祀られているのか分かりませんでした。

▼それらの後方に建つ石碑群。

▼当社の繁栄を伝えるものがもう一つあります。

江戸時代の当社の宣伝マンだった「願人坊主」が水垢離を行なった井戸と伝わります。

江戸市中で話題となった「願人坊主」は歌舞伎の演目になっていて、井戸周囲の玉垣には歌舞伎役者の名が刻まれています。

 

春先の陽も一番高くなり、徒歩の江戸市民ならそろそろ市中に戻る時間帯でしょう。

▼今季最後の梅花を見ながら神社を出ます。

 

▼「半田稲荷神社」から直線距離500mもない「葛西神社」の記事。

wave2017.hatenablog.com

 

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