鎌倉宮の御朱印
「かまくらぐう」主祭神:護良親王(神奈川県鎌倉市二階堂154)
一番右は2013年の御朱印。10年のブランクは全く姿を変えました。
日付が一つですので見開き扱いと理解します。
案内では「正月限定」とされていた御朱印です。
「大塔宮 護良親王(おおとうのみや もりよししんのう)」の文字、
左下は「二品親王(花押)」があしらわれていました。
親王の位階は一品〜四品まであり、 護良親王は二等級になります。
「大塔宮」は「 護良親王」の通称。
「大塔宮」は「おおとうのみや」または「だいとうのみや」と読まれます。
2013年ではまだオリジナルの御朱印帳は存在しませんでした。
それでも表紙に「御朱印帖」と苗字を書き入れていただきました。
▼2023年1月、社務所の周囲には大勢の参拝客が詰めかけていました。
▼こんなネコの案内がありましたが、大きく待つことなくいただけました。
▼2023.03現在では常時以下の御朱印がいただけるそうです。(▼写真は「鎌倉宮」)
▼鶴岡八幡宮から10分ほど歩けば鎌倉宮大鳥居に到着するでしょう。
「鎌倉駅」から直接訪れる人は少なく、鶴岡八幡宮や荏柄天神社などからの参拝の流れで訪問する人がほとんどでしょう。
一部を除いて、どこを歩いても鎌倉の街に大きく広い道路はありません。
その道路の先に、笠木だけが朱色という特徴的な白い大鳥居が見え始めます。
鎌倉宮は鎌倉幕府打倒の立役者として活躍し、28歳で足利に命を奪われた後醍醐天皇の皇子 大塔宮護良親王を祭神として、1869年に明治天皇の命により創建されました。
大塔宮についてwiki から引用です。
大塔宮は宮将軍とも呼ばれ、皇族ながら武勇に優れ、鎌倉幕府打倒に活躍したが、尊氏の力量を認めていたがゆえに事あるごとに敵視し、後醍醐天皇の意志にも反したために疎まれて鎌倉の直義に預けられた。囚われた際は心穏やかに雪景色などを見て国事に奔走中のゆとりが無かった自分を省みるが、時すでに遅く直後に殺害される。
▼大鳥居手前には早咲きの梅がほころんでいました。
▼大鳥居から境内に入ると授与所には獅子頭のお守りがズラッと並んでいます。
獅子頭は護良親王が出征の際、兜の中に獅子頭の守りを忍ばせていたという伝承から、創建当初より授与されているそうです。
▼開花前の梅の木は、護良親王の弟宮お手植えの子孫とか。
▼ニノ鳥居も特徴的なツートンカラー。
▼参道途中から左脇の道筋を辿れば別な趣を感じさせられます。
▼ニノ鳥居左手前にある手水舎ですが・・・
▼水盤は獅子頭で埋められていました。花手水ならぬ獅子手水。
▼1月8日の訪問ではニノ鳥居手前から列ができていました
▼同じアングルの2013年2月です。
▼やはり1月中は、どの神社も参拝者が多いのは変わりありません。
▼鎌倉宮の拝殿は壁のないタイプで風情を感じます。本来はここへ昇殿して拝します。
▼人気のおみくじ授与所にもネコが案内しています。
鎌倉宮と猫の関係は不明。
▼おみくじ授与の先に護良親王が幽閉されていた土牢などが見られる有料拝観区域があります。たった300円ですが本ブログは未踏区域。
▼有料ゾーンの出口です。
▼その右隣、境内右奥にある境内社は、祭神 村上彦四郎義光を祀る「村上社」。
村上義日(むらかみ よしてる)の名の方が一般的でしょう。
鎌倉幕府との戦い元弘の乱における吉野城の戦いで、次男の義隆と共に討死。
護良親王の身代わりとなって自刃したとも伝わり、そのことから「撫で身代わり」と呼ばれ病気や厄除けの身代わりにご利益あり。
吉野山に村上義日の墓所と伝わる場所があるそうですが、歴史的には実像は不明なことばかりのようです。
なぜ手を合わせているのかは不明ですが、撫でられ腕が黒くなっていました。
▼あちらこちらの神社などで目にする「厄割石」。
▼そして冒頭で掲載した社務所ゾーン入口です。
▼かつては神鹿が飼われていたそうですが、現在は作り物の鹿だけ。
▼「鎌倉宮NOW」!
▼干支チェンジ。いろんな動物がいます。
吉川英治「私本 太平記」や、大河ドラマ「太平記」などを読んだり観たりしていれば、鎌倉宮参拝の意味が深まるかもしれません。