▼天照山 良忠院 勝願寺の御朱印です。(浄土宗・)
「鴻巣 檀林」の文字は、檀林=学寮ですが、江戸時代までこの寺が浄土宗の大学であったことも示しているのでしょう。。
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▼勝願寺に隣接する鴻巣公園も、かつては寺の境内の一部だったようです。
▼惣門から延びる長い参道は、記憶の中では檀林特有の共通の姿です。
▼扁額は「栴檀林」ですが、単に「檀林」と言う場合と「栴檀林」と表記する違いが分かりません。きっと同じものでしょうね。
御朱印には「檀林」としかありませんが、江戸時代までは「関東十八檀林」という浄土宗僧侶を養成する機関として機能していました。
その十八檀林の一部をwiki から抜き出してみますと、
武蔵国 • 増上寺(東京都港区)
• 伝通院(東京都文京区)
• 霊巌寺(東京都江東区)
• 霊山寺(東京都墨田区)
• 幡随院(東京都小金井市)
• 蓮馨寺(埼玉県川越市)
• 勝願寺(埼玉県鴻巣市)
• 大善寺(東京都八王子市)
• 浄国寺(埼玉県さいたま市岩槻区)
相模国 • 光明寺(神奈川県鎌倉市)
下総国 • 弘経寺(茨城県結城市)
• 東漸寺(千葉県松戸市)
• 大巌寺(千葉県千葉市)
• 弘経寺(茨城県常総市)
と、並んでいました。
太字にした半数ほどノア寺は、すでに訪問して御朱印をいただいていることを改めて知らされました。
どこも大きな寺院で檀林と呼ばれていた時代は理解できますが、御朱印に「檀林」という文字が並んでいるのは、ここ勝願寺だけのようです。
▼仁王門は大正時代の再建で、左右の仁王像は秩父の三峯神社から送られたものだそうです。
寺と神社の「ナカヨシ」さ、双方の寛容性が伺えますが、多くの神社とかつての別当寺にそんな話、姿はなかなか窺えません。
江戸時代までは同じ敷地内でそれぞれの役割を担い「ナカヨシ」だったのが、現在では殆どの別当寺と神社が分断されてしまっているのは、少し寂しく感じます。
▼仁王門の扁額は山号の「天照山」。「天」の文字は読み取れませんね。
それにしても漢字は縦書き用に出来ていることを、改めて思い知らされます。
「天照山」の3文字も、これは横書きではないのです。
見た目は横書きですが、天(改行)→ 照(改行)→ 山と続く、1文字ずつの3行縦書きだそうです。
納得できるような、無理があるような解釈です。
▼仁王門からも本堂までに長い参道があります。
勝願寺は堂宇のほとんどを火災等で失い、明治以降の再建ですが檀林の威厳は引き継がれているように感じます。
このほか勝願寺には「小松姫」の墓もあります。
「小松姫」は関ヶ原の戦いで徳川方につき、上田藩の初代藩主となった真田信幸の正室です。
常のことですが、急ぎ足の訪問では勝願寺の多くを見て取れませんでした。
ここも再訪したのですが、どこもかしこも再度訪問したい寺社ばかりです。