島穴神社の御朱印
「しまあな じんじゃ」主祭神:志那都比古尊(千葉県市原市島野1129・1130)
▼島穴神社の御朱印です。
思いっきりシンプルな御朱印でした。
「キラキラ御朱印オッカケ」ではないのでシンプル御朱印に満足ですが、墨書きと朱印の3要素の位置を並べ変えたくなる時もあります。
▼島穴神社は現在でも田んぼの真ん中にあるようなところに位置しています。公
神社はアクセスしづらい場所にあります。
公共交通機関ですとJR内房線「姉ヶ崎駅」からバスになりそうです。
訪問時も周囲が道路工事中で、思うように進めず、何度も同じ場所をグルグル!
▼工事中で行き止まり!を繰り返しました。集落の中の思いっきり細い道路を通り抜け、やっとのことでたどり着きました。
▼車で一の鳥居正面には行き着けませんでした。
神橋から逆方向に戻っての写真です。
道路工事が整備されれば一の鳥居にも迷わずたどり着けることでしょう。
▼周囲に宅地、住宅はポツポツあるのですが、田んぼの中の森というイメージです。
▼市原市がまだ宅地開発される前は、完全に村の外れの「鎮守の森」だったように思いますが、それにしては立派な「しまあな しんきょう」が架けられています。
▼かつては神橋が架かる川にふさわしい清らかな流れがあったのでしょうか?
まさに「草ボーボー」の「前川」という河川です。
▼神橋を渡り境内に入る前にもう一つの橋「宮之橋」があります。結界でしょうね。
▼社頭、二の鳥居や案内札は新し目ですが、ここまで足を進めてきた時、期待なのか、不安なのか正体不明なゾクゾク感が身体を走りました。
神社を訪問した時、ごく稀にそんな感覚を覚えることがあります。
久々の感覚でした。
▼二の鳥居の左手前は、整備中なのか雑然としています。
ゾクゾクなオーラ感が消えてしまいました。
▼整備されれば神秘的な「弁天池」にゾクゾクさせられるかもしれません。
▼二の鳥居をくぐって境内に入るとすぐ左に別な鳥居。
▼何であれ、とりあえず「手水舎」で清めます。
▼この神社には唯一相応しくない手水の「イラストつき清め方法」。
▼先ずは拝殿に向かいます。
▼向拝には年季を感じさえられる細かい装飾彫刻が施されていて、
1849年の建立だそうです。
▼扁額の「嶌穴神社」は恐ろしく微妙な書体で書かれています。
▼本殿にも惜しげのない彫刻が・・。
神社に掲示されていた由緒の引用です。
当宮は「延喜式」所載の上総五社の内の一社であり、古くからこの地方の格式ある名社として崇められてまいりました。
今からおよそ千八百年あまり前の景行天皇の40年(西暦114年)日本武尊が東征のみぎり相模国走水より上総国へ航行中にわかに暴風に遇われあやうく船が覆りそうになった時同乗されていた、妃君の弟橘姫命が大和の大和国の風鎮の神龍田大社を遥かに拝み、安全に上総国まで航行させてくれるならば必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽しますと祈りながら海中に身を投ぜられました。するとたちまち暴風は止み、ぶじ上総国へ着くことができたので日本武尊は弟橘姫命のご遺志の通りこの地に志那都比古尊を祭る当宮を創祀されたのであります。のち景行天皇が当地へ行幸(127年)の折日本武尊、倭比売尊を合祀されました。
また陽成天皇8年(884年)には朝廷より正五位上の神階を授けられ、明治12年(1879年)には千葉県の県社に列格されたのであります。
2000年近い昔の話ですので古墳時代前のことです。
歴史もまだ定かでなく、景行天皇も実在するか否かわかっていませんが、まぁ、そのくらい古い、歴史のある神社ということなのでしょう。
日本武尊とその妻の言い伝えも、房総半島の神社には数々残っている話です。
確かにその古さというか、雰囲気は歴史を感じさせられるに余りある神社です。
また、とても境内社の多い神社です。
きちんと案内板で記されている社から、案内のないものまでいくつも鎮座しています。
▼御神木は銀杏でしょうか? 違うかな?
▼神社で一番大きな建物は社務所になっています。
▼月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山の登拝記念碑がいくつもあり、石碑の裏面には個人の名前が刻まれています。
もともとこの地域は出羽三山が古くから信仰されていて、
江戸時代にはその活動が活発になり、現在でもその形が若者たちに引き継がれ、
夏になると何人もが月山に参拝するそうです。
とても羨ましく思える信仰習慣で、
この地域のそんなドキュメントをTVで見た覚えがあります。
表現力がないので「とってもイイ神社でした」というほか言葉が見つかりません。
というか、個人的に好みの神社でワクワク、ゾクゾクさせられた神社でした。