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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

八事山 興正寺の御朱印(名古屋・昭和区)〜尾張高野とも言われた八事山を彷徨う

八事山 興正寺御朱印です。(高野山真言宗/愛知県名古屋市昭和区八事本町78)f:id:wave0131:20210330191809j:plain

興正寺 総本尊 大日如来御朱印

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興正寺 褒灑陀御朱印f:id:wave0131:20210330191802j:plain

「葵の紋」は興正寺尾張徳川家祈願寺として発展してきた経緯によるものでしょう。

褒灑陀」読めず、まったく意味不明です。

ほう さい だ」と読むのでしょうか?

高野山真言宗で読まれる経の名称かもしれません。

御朱印をいただいたときに遠慮せずお聞きすれば良いのに、この時は出来ずにいました。

尋ねれば、きっと進んで説明いただけた事でしょう。

 

後日、調べたところ「布薩会(ふさつえ)」という期間中にいただける御朱印とのことでしたが、この時は「盆施餓鬼法会」が開催されていました。

 

当寺は「知多四国八十八ヵ所」「尾張三十三観音」「東海三十六不動」など、複数の霊場札所となっているので、

2021年現在の寺のHPによれば、は6種類の御朱印がいただけるようです。

HPには3種類の御朱印帳も掲載されています。

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興正寺山号にもなっている「八事」の街は文教地区でもあり、高級住宅街でもあるそうです。

 

寺の創建は江戸時代の1686年。

弘法大師から五鈷杵を授かった天瑞和尚が建立し、尾張徳川家から帰依を受け反映したたことから「尾張高野」とも呼ばれたそうです。

 

▼「中門」に「蛍放生会青葉まつり・盆施餓鬼法会」などの案内が立ち、寺は大勢の参拝者で賑わっていました。

f:id:wave0131:20210330191829j:plain開かれた大きな寺ですので、特別な行事がなくても参拝者が絶えない寺なのでしょう。

 

▼高さ26mの「五重の塔」は1808年に建立された国の重文に指定されています。

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この時は、ほとんど「立ち寄り」的な訪問だったので、広大な境内をゆっくり見ていません。

 

▼江戸末期に発行された尾張の地誌「尾張名所図会 八事興正寺」にも紹介されていて、丘陵地帯に広がる寺の広大さが見て取れます。

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▼その図会にも描かれている五重の塔ですが、名古屋にも歴史ある五重の塔がある事は全く知りませんでした。

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「名古屋の五重の塔」と言われても全く思い浮かびません。

その昔「大須観音」にはあったそうですが、明治時代の大火で焼失しているそうです。

美しい塔なので、つい何回もシャッターを押してしまいました。ミーハーです。

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八事山は大きく「西山」と「東山」とに分けられ、かつては東山は「女人禁制」だったそうです。

その「東山」の境に建っていたのが、冒頭に掲げた写真の「中門」で、のちに現在地に移設されたそうです。

 

阿弥陀如来を本尊とする「西山本堂」は「ぽっくりさん」とも呼ばれ、長寿・健康・安産などのご利益を願う祈りが絶えないとか。f:id:wave0131:20210330191838j:plain

ぽっくり」「ころり」「ぴんころ」などと親しまれて参拝者が訪れる寺は全国にありますが、人生100年などと寿命が長くなった日本人が、

長生きしても患わず「ぽっくり、ころり」と旅立ちたいと願う気持ちの表れでしょう。

 

▼「観音堂」は尾張徳川家二代藩主光友寄進の観音像が本尊ですが「秘仏」でした。

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大急ぎで彷徨い、上っ面だけの参拝の興正寺でした。

松戸神社の御朱印(千葉・松戸市)〜水戸街道 松戸宿と共に歩んできた歴史を教わる

松戸神社御朱印です。(千葉県松戸市松戸1457)f:id:wave0131:20210318194745j:plain

 

松戸神社御朱印(2020年)。f:id:wave0131:20210318194446j:plain

境内社 秋葉神社御朱印(2020年)。f:id:wave0131:20210318194438j:plain

松戸神社御朱印(2013年)。f:id:wave0131:20210318194442j:plain

2013年時点では当然というか神社印1種類のみでしたが、

いつからか境内社の「秋葉神社」の御朱印もいただけるようになっています。

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松戸神社の鎮座する松戸は江戸時代に整備された「水戸街道」の宿場町。

 

▼初回訪問の2013年4月下旬は、ニ之鳥居周辺の新緑に石造りの鳥居が白く光っていました。

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▼4月28日は特に祭礼日でもなく、特別な行事がある日とも思えませんが、境内は大勢の参拝客で賑わっていました。

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▼7年ぶりの2020年初冬の再訪です。

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松戸駅から徒歩7、8分、住宅地ですが、旧水戸街道の商店街も近いという恵まれた立地のせいか、行き交う人々の多くが神社に立ち寄るような雰囲気です。

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一之鳥居の脇に一対の狛犬

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威嚇するような表情ではなく、微妙な顔は本ブログが多少なりとも狛犬に興味を抱けるようになった、きっかけとなっています。

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▼鮮やかな蛍光ピンクは、おそらく椿でしょう。植物知識はまるっきしヨワイ。

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二之鳥居周辺は冒頭に掲載した2013年訪問の景色とはまるで違っていました。

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▼二之鳥居の先の神橋周辺は紅葉も少なくなって初冬の匂いがしています。

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橋は「潜龍橋」と名付けれています。「龍が潜む橋」神橋にふさわしい名称。

▼でも、橋の下の川は龍が潜むには少し狭いかもしれません。

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▼11月15日の「七五三」も過ぎた22日ですが、まだまだ「七五三」を祝う参拝者が多く、境内は前回訪問同様、大にぎわいです。

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1626年創建と伝わり、当時は神仏習合時代で「御嶽大権現」と呼ばれていたそうです。

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▼細かい彫刻が施された手水舎の隣には「龍神様」が御神水を振舞っています。

手水舎同様、ここも柄杓が取り払われています。

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▼明治に入り「松戸神社」と改称され、現在の主祭神である日本武尊を祀る社殿は江戸時代末期に末期に再建されたものです。

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▼向拝に掲げられた龍の彫刻が賑々しい扁額は、情けないことに一文字も読み取れません。

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▼本殿は1626年の創建とされていますが、約300年前に再建されたそうです。

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▼社殿脇に御神木の大銀杏。

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この大銀杏には水戸の黄門様の伝承があります。神社HPからの引用。

光圀公が鷹狩でこの地を訪れた際に、大銀杏に止まった白鳥へ鷹を放とうとしましたが鷹は微動だにしない。
憤慨した光圀公は、弓で射ようとするも、弓手は動かなくなり弓も中心から折れてしまった。
愕然とした光圀公は、折れた弓矢を奉納し、御神前に鎮謝して帰ったと伝っています。

これも感心するストーリーです。

水戸街道に面する神社ですので黄門様も崇敬し、きっと参拝されていることは間違い無いでしょう。

 

▼境内北側にも神社の入り口があります。天気が良いので皆さん憩っています。

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百度石。そろばんの玉は一列20個で5列=100です。

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社殿裏手の境内社を見て回ります。

▼鳥居が設けられている小さな石の祠は「松尾社」。

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その左側に「三峰社」「疱瘡社」「八幡社」「水神社」の4社がまとめられています。

 

▼古い灯篭の先は「浅間神社」。

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富士塚の上の碑は「富士嶽神社」と彫られています。

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▼「庚申社」と「稲荷神社」も並びます。

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▼「厳島神社」もあり、境内社は多くメモしておかないと全く判別できません。

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一つ一つの社に丁寧な案内板があるので、メモする必要はないですが・・。

 

社殿前方に戻りました。

▼こちらのもう一つの大きな「水神社」の景色は最高です。

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多くの境内社は神社近辺から遷座されてきたのでしょう。

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御朱印をいただいた境内社は「秋葉神社」。

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境内社というには立派過ぎ。よその小さな神社の本殿も叶わない姿です。

火除けの神様、火之迦具土大神を祀ります。

 

▼「楽殿」は新しい造りのようです。

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▼さぁ、御朱印をいただいて帰ります。

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松戸宿とともに歴史を築いてきた見所の多い神社でした。

 

 

永谷天満宮の御朱印(横浜・港南区)〜「日本三躰」早春の裏山、河津桜のピンクに染まる

永谷天満宮御朱印。(神奈川県横浜市港南区上永谷5-1-5)f:id:wave0131:20210323194247j:plain

 

永谷天満宮御朱印(2021年)。f:id:wave0131:20210323194257j:plain

永谷天満宮御朱印(2017年)。f:id:wave0131:20210323194253j:plain

浄書にも朱印にも「日本三躰」とあります。

後に天神様となった道真は大宰府に左遷された翌年、鏡を利用して自身の姿を三躰の木像にしたそうです。

そしてその内の一躰が当社の御神体となっています。

他の二躰は太宰府天満宮と大阪の道明寺天満宮に安置されているそうです。

三つの神社は「日本三躰天神」とも呼ばれます。

 

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「日本三大天神」とか「関東三大天神」という括りもありますが、

ここは「日本三躰天神」となります。

「三躰」と言われても、その意味を知らないと何の括りか分かりません。

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永谷天満宮ながやてんまんぐう)へは横浜市営地下鉄上永谷」から数分です。

 

▼社号標やカンバンなどの、あちらこちらに「日本三躰」の文字が見えます。

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▼古い石の鳥居から小高い位置にある社殿まで長い参道が延びています。

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▼2017年10月の初訪問時は社頭がまだ青々としていました。

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▼再訪の2月は白い梅の花が参道を埋めます。

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天神社ならではの光景ですが、

この参道の色も3月末には桜の花のピンクに染められるそうです。

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▼駐車場周りにも白梅が咲き誇っていました。

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▼天神様に欠かせない牛像も春を待って横たわりますが、コロナ禍では容易に撫でられません。

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撫でられず、暇を持て余しているようにも感じます。

 

▼この1年、もうすっかりノーマルになった柄杓のない手水舎です。

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▼長目の参道の先に石段があります。

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▼石段を上がったところに一対の狛犬

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狛犬の先は神楽殿が見え、いくらかそっけない感じのする境内が広がっています。

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▼広い境内の奥にさらに石段が続いています。

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▼石段の先が、いよいよ社殿です。

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▼意外とコンパクトな社殿は平成に入ってからの造営。

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創建としての社殿が造営されたのは1493年と伝わります。

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現在、御神体となっている「日本三躰」のうちの一躰は、

当初、道真の左遷とともに播磨国に追放された道真の五男菅原 淳茂(すがわらの あつしげ)手に渡りました。

 

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後に淳茂は関東に下り、当地、永谷郷に居館を構え、道真の「一躰」を奉祀して朝夕崇拝したことが、永谷天満宮のはじまりだそうです。

その数百年後の1493年に、当時の永谷郷の領主の夢に道真が現れます。

日本三大怨」の道真が夢にあらわれ、畏れた領主が社殿を造営したというのが神社の経緯です。

 

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▼社殿のある石段を一旦降りると「神輿庫」。

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▼さらに境内社が続きます。

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稲荷社白糸社白山社沢滝社が並びます。

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▼社殿位向かう石段の右手にあるもう一つ石段を登ると不動尊を祀る社が建ちます。

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▼「滝不動」の札が立てられています。

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永谷天満宮神仏習合時代があり、不動像が祀られているのもその名残りで、こんな姿も、すっかり慣れました。

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この一画は微妙な雰囲気を感じられました。

 

▼社殿の左手からも裏山へ続く石段が見えますが・・・

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▼戻って右側からのピンクに彩られたルートを登りましょう。

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▼桜はどの品種も見頃はわずかな期間です。

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天神山」の河津桜は、思いもよらずタイミングよく見頃に出会えました。

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2021年2月下旬ですが、もうすっかり春が近いことを知らせてくれました。

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▼天神山を上った先に、当地に「日本三躰」を導いた道真の五男 淳茂の「菅秀塚」が建ちます。

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淳茂はこの天神山から父道真を思い、遥か西の太宰府を遥拝したと伝わります。

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▼同じ西方向を遥拝するように小さな「浅間神社」の祠もあります。

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▼タイミングが良ければ太宰府は無理ですが、富士は見えるかもしれません。

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▼神社を出る途中の左手「天神山」を山号とする、元別当貞昌院」があり、御朱印もいただけるようです。

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天満宮をゆっくり巡っていたら4時を過ぎてしまったので御朱印は遠慮しました。

次の機会にとっておきましょう。

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道真親子の歴史を少しトレースでき、四季折々の姿を見せてくれる天神さんでした。

足利織姫神社の御朱印(栃木・足利市)〜わたら〜せ ば〜しで みる ゆ〜〜ひを

足利織姫神社御朱印です。(栃木県足利市西宮町3889)f:id:wave0131:20210322190915j:plain

御朱印は2016年の日付ですが、令和に入ってもスタイルは変わっていないようです。

奉拝の下の印は祭神名で「結縁 天御鉾命(あめのみほこのみこと)天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)」。

伊勢の神服織機神社(かんはとりはたどのじんじゃ)から勧請されたの織師織女の名だそうです。

織姫と織彦と理解して良いのでしょう。

多分・・・。

 

そして神紋と、中央の印は「於里比賢乃也志呂印」となっていますが、意味はわかりません。

 

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▼足利といえば「足利氏発祥の地」であり「足利学校」や「渡良瀬橋」が知られています。

今や森高の歌詞に使われている八雲神社とともに、

男女二人の神様を祭神とする縁結びの神社として織姫神社も有名かもしれません。

 

森高の歌は1993年のヒット曲ですが、息長く愛されてる曲かもしれません。

28年前の曲で、もう遠い昔のことととなりますが、

森高が「あしかが輝き大使」という観光大使に任命されたのは、

2015年でまだ6年前のことです。

 

あしかが輝き大使」というのは何名かが任命されていますが、

森高の場合は任命されるまでもなく、その歌で十分観光大使の役目を果たしていると言えるようです。

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足利市渡良瀬橋の近くには歌碑と曲が流れるデバイスがあるそうですが、

歌詞中の「八雲神社」と同名の神社が市内に5社あるそうです。

そのうち足利市緑町に鎮座する「八雲神社」が歌詞の対象となっています。

2012年に火災で焼失している神社で、その後の再建支援金などでニュースにもなり、

さらに有名になったようです。

 

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1705年創建と伝わる足利神社も当初は、織師織女を「八雲神社」へ合祀されたのが始まりです。

しかしこの「八雲神社」は、由緒によると現在の足利市通4丁目だそうですので、

歌詞の神社とは異なります。

もっとも google map では単に「八雲神社」ではなく、

足利 八雲神社」で検索すると一発で歌詞内の「総社 八雲神社」にヒットします。

 

それにしても足利市に「八雲神社」が5つも、6つもあるのは煩雑な事です。

 

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▼この一ノ鳥居から登る石段の数は229で、ここから登って参拝すれば、縁結びの願いも一入(ひとしお)だそうです。

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▼男女間だけではない縁結びですが、今さらでもないので車で神社裏側から進んで駐車場へ行き着き、ここから参拝です。

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足利は1000年以上の歴史を持つ織物産業の街です。

そんな街に産業の守護神が祀られるのはごく自然で、神社の創建はむしろ遅かったようにも感じられます。

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昭和の戦後1950年頃までは繊維業界は「ガチャマン景気」とか「糸へん景気」と呼ばれ、

織機がガチャンと織れば万の金が儲かる」と言われ、

足利も絹織物の「足利銘仙」が全国的にも有名だったそうです。

しかし最盛期から半世紀あまり、現在では足利の織物産業も存亡の危機にあるとか。

繊維業会ではよく聞く話です。

世界水準の織物を手掛ける職人さんがまだ残るここ足利では、

織物産業の生き残りをかけて若い人たちが新たな取り組みに奮闘しているそうです。

 

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平等院鳳凰堂を模した社殿は1937年に完成。

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足利の街の織物産業の守護神としての大きな役目は終え、

様々な「縁」を取り持つ役目に重きをおく神社となっているのでしょう。

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最後に、

▼2016年の「八雲神社」は、社殿がまだ仮殿で授与所もありませんでした。

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現在は伊勢の「天照大神弟神の月讀尊荒御魂宮」から譲り受けた社殿が建ち、

御朱印もいただけるそうです。

 

駒木 諏訪神社の御朱印(千葉・流山市)〜地名から献馬まで 「コマの揃った」古社

諏訪神社御朱印です。(千葉県流山市駒木655)f:id:wave0131:20210317132300j:plain

正式名称は地名の「駒木」は用いず、単に「諏訪神社」または「諏訪之宮」です。

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諏訪神社へは東武野田線豊四季駅」から徒歩薬5分です。

 

以前にも関連を記事にしましたが、

豊四季」はという美麗な名称は、千葉の地域一帯が明治時代に開拓された13の入植地のうち4番目ということで「豊四季」の地名が付けられたそうです。

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13の入植地は、富、和、咲、豊季、香、実、栄 、街、美上、倉、と続き、成田方面まで広域に広がっています。

 

どの名称も入植の願いが込められた、明治期らしい地名となっていますが、

「豊四季」だけは、何となく昭和のイメージっぽく感じるのは本ブログだけかもしれません。

 

時は過ぎて「流山市」となったこの地域は「つくばエキスプレス」の開通で都心へのアクセスがよくなり、比較的若者にも人気のある街のようです。

 

▼そんな街に「駒木のお諏訪さま」とも呼ばれる神社が鎮座します。

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諏訪大社を総本社とする「諏訪神社」は全国で25,000社あるそうですから、

おすわさま」と親しみを込めて呼ばれる神社も多数あります。

東京ですと新宿や日暮里などの「諏方神社」も「おすわさま」と呼ばれるそうです。

全国で数多く「おすわさま」と呼ばれているのでしょう。

 

▼「駒木のお諏訪さま」は参拝者を義家の献上馬が迎えてくれます。

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平安時代八幡太郎が「後三年の役」の際、この地域で軍馬の調達をし、

勝利後の帰途、立ち寄って献馬をしたと伝えられています。

その900年前の献上馬を、かたどったのが上の写真の社頭に建つ像だそうです。

 

▼境内にも別の「献馬」が義家とともに建ちます。

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いつものように大概「義家」か「頼朝」の伝承が残る関東の古い神社です。

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広く深い森が続く境内は、

御朱印に墨書きされた「諏訪之宮」の名にふさわしく、まさに「」です。

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高い木々に阻まれて天気の良い日中でも、境内は木漏れ陽の光しか届かず、少し暗いイメージも抱かないわけではありません。

 

アッケラカンとした明るい神社より、

歴史を感じさせられるのも深い「」の木漏れ陽が演出しているからかもしれません。

 

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主祭神健御名方富命(たけみなかたのみこと)とする当社は

807年のおこりと伝わります。

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天武天皇の子、高市皇子の末裔たちが新天地を求めて、森も水も豊かで肥沃なこの下総に移住し、田畑を墾き、農業を営んで集落を造り、

信濃国諏訪大社からいただいた御神額をもって神社としたそうです。

平安時代初期のことになります。

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ところで鎮座地「駒木」の地名由来はいくつかあって、

かつては「古牧」であり駒木と変化したとか、
源義家が奥州征討時に諏訪神社の木に)をつないだことから駒木とされた、と言われています。

駒ケ岳や東京の駒形、駒沢、駒込なども同様でしょうね。

 

どちらにしても元々この地は軍馬の産地でもあったことから「」の文字が用いられたのでしょう。

サラブレッドではなく「」ですから、社頭に立っていた「献馬」は少しスマート過ぎるようにも感じます。

 

)とつながりの深い神社ということになります。

 

広大な境内を持つ諏訪神社には、たくさんの境内社が建ちますが、時間切れのドタバタで参拝できていません。

 

瓢箪から駒のような、神社とは直接関係のなさそうな像も多く建ちます。

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山上憶良も神社とは関係なさそうです。

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と、関係のない写真ばかりではなく、

境内社の参拝とともに写真も撮るべく是非とも再訪したい神社です。

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