横浜にはいくつかの七福神がありますが「横浜港北七福神」は名前の通り、7つの寺は全て横浜市の港北区内にあります。
それでも全て徒歩で巡ると10km以内、3〜4時間ほどだと思います。
全て寺院で構成されていますが、コース上には菊名神社や師岡熊野神社などもあります。休憩も含めて半日くらいの予定で巡ると楽しい七福神になること間違いないでしょう。
ということで「横浜港北七福神」の記事をまとめてみました。
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▼八木山 福徳院(日限地蔵)の御朱印です。(野山真言宗・横浜市港南区日限山)
現在「日限地蔵 御朱印」で画像検索すると、群馬桐生市「観音院」でいただける御朱印が圧倒的な結果となります。
話題となってネット上に上がるのはビジュアル優先の御朱印となるのが当たり前。
したがって正統派とも言えるクラシックな御朱印は「肩身の狭い」位置に押しやられます。
そういう意味では、ビジュアル系の御朱印掲載を特に意識していない当ブログも、御朱印ブログとしては「隅っこ」に押しやられてるのが現実かもしれません。
でも、こんなブログに訪れてくれる皆さんの心と「はぐれぬ」ように続けたいと願っています。
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▼全国にある「日限地蔵」ですが、ここは横浜市です。
各地の寺院を参拝していると「日限なんとか」という通称を持つ寺に時々出会います。
「日限不動」とか「日限祖師」とかですが、やはりその数は「地蔵」が一番多いようです。
▼寺は小高い丘の上にあります。
▼正式名称は分かりませんが、奉納されたものでしょう。こういうのを目にすると決まってチベットの山奥にひらめく「タルチョー」がワタシの目の前にひらめきます。本当は「タルチョー」に近いものは「五色幕」かもしれません。いずれにしても仏教、釈迦に由来するという共通点は一緒でしょう。
もっとも地蔵は赤です。赤い頭巾に、赤い前掛けは誰でも思い浮かべられる姿です。地蔵の赤は子供をイメージしているのでしょう。赤ん坊、赤ちゃんという言葉も地蔵とつながりがあるものと思われます。
▼寺の参道正面に建つ像は、真言宗の寺ですので弘法大師かと思いきや「西行」さんのようです。お会いした事がないので確かなことは言えません、いつも・・・。
この寺には西行さんの他に様々な方がいらっしゃいます。
▼こちらは、この寺の何代目かの住職さんのようです。
▼こちらはかなり愛嬌のある方のようです。寺にタヌキは違和感ありません。
▼浄行地蔵菩薩は水をかけられ磨かれて、黒光りしてるような、石の中の鉄分にサビが浮いているような姿。
▼境内は線香の香りに包まれています。
長野、山梨にある日限地蔵とともに「日本三体地蔵尊」の一体とも呼ばれているそうですが、あまり意味のない数え方のように思われますが・・。しかし、昔この地に住む百姓の持病が癒えたことから、慶応年間に創建されたと伝わるので比較的新しい寺ですが、当時の寺周辺は人里からは遠く、小高い山が続くのんびりとした田舎にも関わらず、4の数字がつく縁日には周辺から多くの参詣者が集まったそうです。
戦前までは横浜の花街からの参拝者も多く、その艶やかな人たちを目にしようという人たちもやって来て大変賑わったそうです。
寺や神社は信仰の場でもあったのですが、弁当持参の行楽の対象でもあったからこそ人々が多く訪れたことは間違いなく、富士や大山、成田、伊勢詣でなどは当時の人々にとっては楽しい旅だったのです。
▼これは常香炉でしょうか? 煉瓦造りの香炉は初めて見ましたが、寺にレンガは京都・南禅寺の「水路閣」を思い出すだけです。
▼こちらが本堂でしょうが、やはり煉瓦造りの常香炉。レンガ造りは違和感を感じますが、いつか「水路閣」のようにシックリ、スッカリ寺の境内に馴染んでいくものかもしれません。
▼本堂横の裏手は深い森になっていて、様々な地蔵菩薩堂や薬師堂が続いています。
寺の周辺地域は丘陵が削られ、ほとんどが宅地化されていますが、ところどころこんな緑地が残っています。
寺の創建時には境内から見下ろす景色は緑一色だったに違いありません。
▼境内にあった桜の老木をお焚き上げしようとしたところ、仏様の姿が現れたそうです。確かに螺髪の仏さまの顔に見えなくもありません。永年にわたり花見とともに参拝された多くの人々の信仰心が詰まった姿と言えるかもしれません。
以下、信州旅の締めくくりでツマラないです。とりわけ御朱印目当ての訪問者は直帰してください。
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▼秋の信州最後の日、朝5時からOPENしている外湯にチャッポ〜ンしてきます。大きめの湯小屋は混雑している場合が多いので、小さめの外湯を狙っていきます。奈良時代、行基により発見された野沢温泉の外湯は基本的には温泉温度が高めです。何の加工もしないで源泉をそのまま湯船にドボドボ・・だから少々熱めです。
13ある外湯はすべて料金は取りません。その代わり「賽銭箱」が取り付けられています。気持ちだけ入れて「イイ湯だったなぁ〜」と思ったら、出てからもう100円入れましょう。江戸時代から続く「湯仲間」という組織で維持管理がされているそうです。
常に気持ちよく温泉客を迎えるには大変な努力とお金も必要と思われますが、料金を決めていないという「太っ腹」に感謝です。湯小屋の大小により異なりますが、外湯は基本的に脱衣場は独立していません。洗い場も狭く、シャワーもなく、本来の温泉の姿をしています。
かつては、温泉で頭を洗って体をゴシゴシなんていう無粋な温泉客はいなかったはずです。いつ頃からかシャンプーなどが置かれ、過度な清潔が優先される温泉に変化していったようです。
▼宿に戻って朝ごはんです。普段は朝食にこんな量をいただきません。
しかし、どこかに泊まった時などは朝ごはんだけは美味しくいただけます。ごちそうさまでした。
▼もう少し朝の温泉街を歩いてみます。「麻釜(おがま)」です。
ここでは100℃くらいの温泉が湧いていて、村の人たちは野菜を洗ったり、茹でたりしています。池のような湯だまりがいくつもあります。
▼別な場所ですが「洗濯湯」という洗い場もあります。「温泉様さま」で羨ましい使われ方をしています。
▼街を歩いているとボックスのような容れ物にも温泉が・・.
▼網に入れられた卵2つが、茹で上がりを待っているようです。もちろん直ぐ戻しました。
▼日本の原風景のような・・・。
▼温泉街のはずれに神社です。温泉街があれば神社があります。
社頭は「郷社 湯澤神社」と彫られていました。石段を登るつもりはありませんでしたが、回り込むと寺です。山門の向こうに大きな建物が見えます。
曹洞宗で健命寺というそうですが、神社も寺も御朱印の有無はわかりません。寺は野沢菜の発祥の地でもあるそうです。
▼帰り際、道の駅に寄ります。リンゴも柿もぶどうも仕入れ済みで、もう買いたい物も予算もありませんが蕎麦だけ仕入れます。
▼さ〜て、お家まで300km近くありますが、時間はあるので想い出がいっぱい詰まっている志賀高原を通って草津に降りるルートを走ります。
▼標高が上がると様相が変化してきました。
▼山の斜面の木々が小さなクリスマスツリーのように見えます。▼雪か霧氷のように木の枝が白く凍っているようです。
▼11月3日の志賀高原はスッカリ冬でした。▼長野群馬の県境、横手山のサンセットポイントからは何も見えません。志賀高原はスキーでも1度訪れていますが、夏は3、4回来ています。
▼やはり下界の暑さから解放される夏の日の眺めは最高です。
▼草津側の白根山では斜滑降で山道を登り、▼白根火山の湯釜をエメラルドグリーンに感動することもできました。
▼しかし数年前、湯釜から国道を挟んだ反対側の鏡池で死者も出た噴火が起こっています。それからは規制されて白根火山には登れません。駐車場も売店も閉鎖したままで、国道も群馬側の数キロの区間は駐停車禁止です。途中、イオウの臭いに鼻を刺激されながら、遠い思い出も遠くにやるように草津へ下ります。
▼最後の道の駅「草津運動茶屋公園」で腹ごしらえです。
▼「ひもかわうどん」はワンタンの皮だけというような姿。
▼草津も紅葉見頃で、たくさんのチャイニーズが耳に飛び込んで来ました。
▼帰路につきますが、まだまだ紅葉が続いていました。
今回は2泊3日の旅でしたが、7寺社を訪ね、いただいた御朱印は13体という、全くのスローペース。
宿泊料金はケチケチ、フルーツはヤスヤス、温泉はアツアツ、晩ごはんはニクニクの「ゆるゆる信州」でした。
▼浄瑠璃山 浄光寺の御朱印です。(真言宗豊山派・長野県上高井郡小布施町)
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▼浄光寺は、北斎の天井画がある岩松院から南に500mほどしか離れていません。
なのに夕方近い時間のせいでしょうか、岩松院を訪れてた人出とは明らかに違います。確かに岩松院の北斎の画は見ごたえがあり「話の種」にはなりました。
人との話に出ると「行った、行った!」「見た、見た! あれはスゴかったねぇ」と言うやつです。
ワタシにもその程度のものでした。
ところがここ浄光寺は人も少なく、実際ワタシ達のほかには1組の参拝者しか行会いませんでしたが、山門から雰囲気が全く異なりました。
▼ワタシにはこれだけで「売り」になります。▼門に取り付けられたスイッチを入れると、いきなりびっくりするような音量で薬師堂の説明が始まりました。スピーカーが複数取り付けられているようで、山門から石段を上がった薬師堂まで説明がハッキリ聴こえてきます。しかし「何なの? これは!」と奥まで続く石段に驚いて感動していると、スピーカーからの説明は耳に入って来ません。
▼撮影が下手なので、石段の斜度や奥行き感がうまく出ていませんが、「スゴイ!」としか言いようのない石段です。数多くの石段を経験していますが、ここ浄光寺の薬師堂に続く石段は目に焼き付いて忘れ難いものになります。
この寺に他に「売り」ものはいりません! この石段だけでマンプクになります。
▼薬師堂のオリジナルは1407年の建立とされていますので、岩松院より少し古い時代になります。なんども改修を繰り返していることでしょうが、600年の間、小高い山懐に建ち続けてきた孤高のお堂です。国の重文に指定されていますが、今回の旅で訪れた青木村 大宝寺の国宝三重塔より、さらに上の位置で記憶に残る建物でした。 つい、堂の周りをグルグル回ってしまいました。庶民の中にはまだ科学というものがほとんど無かった時代、人々は病が癒えることを願ってこの石段を登り、薬師如来に祈り続けたことでしょう。現在、無闇に使われている「癒し」という言葉は、当時はそんな使われ方をしていなかったはずです。心や精神的なものでなく、ひたすら物理的な肉体の病が「癒えること」としての言葉だったのでしょう。現代は肉体の病も、精神の病も科学がある程度か解決してくれます。いや病だけではなくあらゆる問題のほとんどをテクノロジーが解決してくれます。そんな現代だからこそ人々は「癒し」を求めることに大きな関心を持つのかもしれません。それは、すごいゼイタクな事でもあります。
▼さらにこの寺の住職は「スラックライン」という言葉に日本の市民権を与えました。TVや雑誌で紹介され、ここからワールドカップのチャンピオンも生まれています。低い位置のラインに足を伸ばしてみましたが、即落下です。1秒も持ちませんでした。危ない「綱渡り」は経験してきたつもりですが・・。
▼小布施を後にして30kmほど北上して2日目の宿を目指します。
▼宿はここにしました。全国的には温泉より「野沢菜」の方が知名度がありそうです。
▼こじんまりとした宿ですが、比較的新しい建物はどこも清潔。宿のまだ若いご主人と少しお話しさせていただきましたが、さりげない優しさと、程よい距離感に宿と共にとっても親しみを持てました。そして何よりも宿の隣が外湯になっています。もちろん宿にも温泉はありますが、浴衣で外に出てこの外湯にドボンです。
「熊の手洗湯」は野沢温泉発祥の地だそうです。この外湯は温度は低めの40℃くらいで浴槽も2つありますので、ゆっくりお湯に浸かっていられます。
野沢温泉は初めての訪問でしたが、とても魅力的な温泉地でした。冬はスキー客で賑わいそうで、広い温泉街を形成していて、ホテル、宿、ペンションなどは200軒近くありそうです。そして外湯が13ヶ所もあります。
大規模なホテルはなさそうです。どの宿も個人経営の小さな規模のものばかりです。そんなことがこの温泉地に独特の雰囲気を醸し出しているようです。東京や名古屋からも距離的には遠く、アクセスが良いとはとても言えません。
それでもこの温泉にやってくる人たちが多いのも理解できます。
▼宿の前には小さな薬師堂。
外湯でドボンの後、温泉街を少し歩いていたら暗くなります。11月の夕暮れはツルベ落としです。
▼宿は朝食だけの予約。晩ごはんはここにします。前夜に引き続き肉づいています。全く信州らしくない、温泉地らしくない晩ごはんという珍しい結果になりました。
写真掲載はやめときましょう!