▼浄瑠璃山 浄光寺の御朱印です。(真言宗豊山派・長野県上高井郡小布施町)
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▼浄光寺は、北斎の天井画がある岩松院から南に500mほどしか離れていません。
なのに夕方近い時間のせいでしょうか、岩松院を訪れてた人出とは明らかに違います。確かに岩松院の北斎の画は見ごたえがあり「話の種」にはなりました。
人との話に出ると「行った、行った!」「見た、見た! あれはスゴかったねぇ」と言うやつです。
ワタシにもその程度のものでした。
ところがここ浄光寺は人も少なく、実際ワタシ達のほかには1組の参拝者しか行会いませんでしたが、山門から雰囲気が全く異なりました。
▼ワタシにはこれだけで「売り」になります。▼門に取り付けられたスイッチを入れると、いきなりびっくりするような音量で薬師堂の説明が始まりました。スピーカーが複数取り付けられているようで、山門から石段を上がった薬師堂まで説明がハッキリ聴こえてきます。しかし「何なの? これは!」と奥まで続く石段に驚いて感動していると、スピーカーからの説明は耳に入って来ません。
▼撮影が下手なので、石段の斜度や奥行き感がうまく出ていませんが、「スゴイ!」としか言いようのない石段です。数多くの石段を経験していますが、ここ浄光寺の薬師堂に続く石段は目に焼き付いて忘れ難いものになります。
この寺に他に「売り」ものはいりません! この石段だけでマンプクになります。
▼薬師堂のオリジナルは1407年の建立とされていますので、岩松院より少し古い時代になります。なんども改修を繰り返していることでしょうが、600年の間、小高い山懐に建ち続けてきた孤高のお堂です。国の重文に指定されていますが、今回の旅で訪れた青木村 大宝寺の国宝三重塔より、さらに上の位置で記憶に残る建物でした。 つい、堂の周りをグルグル回ってしまいました。庶民の中にはまだ科学というものがほとんど無かった時代、人々は病が癒えることを願ってこの石段を登り、薬師如来に祈り続けたことでしょう。現在、無闇に使われている「癒し」という言葉は、当時はそんな使われ方をしていなかったはずです。心や精神的なものでなく、ひたすら物理的な肉体の病が「癒えること」としての言葉だったのでしょう。現代は肉体の病も、精神の病も科学がある程度か解決してくれます。いや病だけではなくあらゆる問題のほとんどをテクノロジーが解決してくれます。そんな現代だからこそ人々は「癒し」を求めることに大きな関心を持つのかもしれません。それは、すごいゼイタクな事でもあります。
▼さらにこの寺の住職は「スラックライン」という言葉に日本の市民権を与えました。TVや雑誌で紹介され、ここからワールドカップのチャンピオンも生まれています。低い位置のラインに足を伸ばしてみましたが、即落下です。1秒も持ちませんでした。危ない「綱渡り」は経験してきたつもりですが・・。
▼小布施を後にして30kmほど北上して2日目の宿を目指します。
▼宿はここにしました。全国的には温泉より「野沢菜」の方が知名度がありそうです。
▼こじんまりとした宿ですが、比較的新しい建物はどこも清潔。宿のまだ若いご主人と少しお話しさせていただきましたが、さりげない優しさと、程よい距離感に宿と共にとっても親しみを持てました。そして何よりも宿の隣が外湯になっています。もちろん宿にも温泉はありますが、浴衣で外に出てこの外湯にドボンです。
「熊の手洗湯」は野沢温泉発祥の地だそうです。この外湯は温度は低めの40℃くらいで浴槽も2つありますので、ゆっくりお湯に浸かっていられます。
野沢温泉は初めての訪問でしたが、とても魅力的な温泉地でした。冬はスキー客で賑わいそうで、広い温泉街を形成していて、ホテル、宿、ペンションなどは200軒近くありそうです。そして外湯が13ヶ所もあります。
大規模なホテルはなさそうです。どの宿も個人経営の小さな規模のものばかりです。そんなことがこの温泉地に独特の雰囲気を醸し出しているようです。東京や名古屋からも距離的には遠く、アクセスが良いとはとても言えません。
それでもこの温泉にやってくる人たちが多いのも理解できます。
▼宿の前には小さな薬師堂。
外湯でドボンの後、温泉街を少し歩いていたら暗くなります。11月の夕暮れはツルベ落としです。
▼宿は朝食だけの予約。晩ごはんはここにします。前夜に引き続き肉づいています。全く信州らしくない、温泉地らしくない晩ごはんという珍しい結果になりました。
写真掲載はやめときましょう!