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宇迦八幡宮は御朱印で人気の猿江神社からは小名木川を挟んで400m〜500mの位置。
東京都神社庁のページからの由緒の引用です。
亨保年間(1720年)近江の国の人千田庄兵工氏此の地に来り、時の幕府徳川八代将軍吉宗公に願い出て、此の土地を開拓せんと3年の長きを費やして村造りを固めなし、其の氏をとって武蔵野国南葛飾郡千田新田と名付けらる。後に寛政九年村全体が一橋家の領家となったので一橋領十万坪とも称したり。
当神社はその当時小さな祠であったが、千田庄兵工敬神の念篤く、神殿を造り千田神社と称し土地の産土神として崇められる。
たまたま土地に穀物の実らざるを嘆き当神社に祈願を籠め、神霊のお告げを受けて、これに代うるに片栗を栽培して農民の飢餓を救ったという古き伝説の故を以て、片栗八幡宮とも称す。
このブログでは滅多に文章の引用はしていませんが、いざ利用させていただくと、東京都神社庁のページは、どの神社の説明も至って簡潔で分かりやすい。
もう他に何の言葉もいらないのです。
江戸時代初期の隅田川東岸は干潟のような土地で、葦原が広がるばかりで何の利用もされていなかった土地だったのでしょう。
渡し舟はあったかもしれませんが、隅田川の対岸に渡れた橋は、1660年頃に両国橋が架けられる前は「千住大橋」が一つだけでしたので不便極まりなかったことでしょう。隅田川東岸の葦原が開発され出したのは両国橋が架かってからのことでしょう。
両国橋ができて60年後くらいに、由緒に書かれている近江屋庄兵衛が数年間を要して開拓し、やっと人が住める、田畑に利用できるくらいの村になったということでしょうか。
そこに小さな祠ができて、この神社の起こりとなったのでしょう。
庄兵衛の氏が千田ということで、現在もその名が地名に残されているというわけです。開拓前は干潟や葦原が、江戸から出る塵芥の処分場だったそうです。いわゆるゴミ捨て場、同じ江東区の現在の「夢の島」と同様です。江戸時代のゴミなど、現代に比べたら質量ともに何ほどのことはなく、まさにチリアクタだったのでしょうが、やはりそんな土地に良い作物ができるわけありません。祭神は「宇迦之御魂命」で穀物の神様。
その穀物のできない飢饉の折にはお告げにより「カタクリ」を栽培して餓えを凌たとのことで、この神社も「片栗八幡宮」の別名があったようですが、あの「片栗粉」のカタクリです。
現在の「片栗粉」はカタクリは使われず、ジャガイモのデンプンから作られていますが、当初はカタクリから作られた「片栗粉」でした。餓えを凌たカタクリの栽培だったのですが、あのカタクリのどこを食べたのでしょう?
もともとカタクリの根茎を利用して片栗粉が作られていたものの、その根茎はカタクリの全体からしたら僅かな部分。
そんなことからもジャガイモが代用されるようになった理由の一つです。
▼カタクリはこんな花です。
そんな僅かな根茎の部分、または新芽や若葉を食料としたのでしょうか?なかなか想像しにくい「食料」ですが、地域の飢饉を救ったことは確かだったのでしょう。
御神木の銀杏の大木はギンナンを想起させられますが、カタクリより、こちらの方が食料としては、かなり分かりやすい植物です。
ところで最近、このブログでは掲載写真とは直接関係のない言葉が写真の間に続く事が度々あります。これまでにも書いてきた事ですが、訪問先の寺社の紹介文、説明文には正確で親切丁寧な他のブログが沢山ありますので・・。
そんなわけですが、
ここ宇迦八幡宮は、この地域では緑が多く境内も広く、立派な社殿を持っていたことに意外性を感じました。
▼また、境内のここだけは何か特別な気配を感じさせられました。
▼仏様が彫られている塔は「妙法華経千部供養塔」という六角宝塔だそうです。▼造立された江戸時代初期の空気感がすっかり溶け込んでいます。
▼人によっては陰鬱にも感じられる場の空気を「身代わり地蔵」が和らげていました。