丸子山王 日枝神社の御朱印
▼御朱印は神社脇の道路を挟んだ西側にある社務所にお願いしました。
ここは参拝者用の駐車場にもなっていました。
インタフォン越しに「社殿前で腰掛けてお待ちください」との返事をいただき、社殿前で待つと間も無く宮司さんが現れ、書置きの御朱印を渡されました。
▼社務所がお留守の時は、こちらの境内授与所でが応答いただけるかもしれません。
この建物の奥は「神楽殿」「山王会館」と棟続きになっていて、参集所のようにも利用されているようです。
▼「武蔵小杉駅」や目黒線「新丸子駅」などから、徒歩10分以内です。
神社鎮座地の住所は「上丸子山王町」で、地名は当社に由来するそうです。
「丸子」自体の地名は古く中世以前には存在しいてて「吾妻鏡」などには「丸子庄」として見られるそうです。
「丸子」の地名は東日本に散見せられ、有名なのは東海道五十三次の20番目「鞠子宿」があります。
静岡の駿河区丸子で「丸子宿」とも書かれますが、読みは「まりこ」です。
当社地域もかつては「鞠子」や「毬子」とも表記され、丸子、丸児、丸小などとも呼ばれていましたが、
東急線の「新丸子駅」の開業にともない「まるこ」の読みが定着したそうです。
▼車で神社の北からアクセスすると社叢とともに大きな看板が目に入ります。
いつものように正式名称は単に「日枝神社」で、「丸子山王」は他との混同を避けるために付けられています。
そうとしたら「丸子日枝神社」の方が分かりやすいのですが、
「山王」と「日枝」で重複しているように感じます。
▼しかしこの場合は「丸子の山王さん、日枝神社」という解釈でしょう。
▼鎮座地は多摩川に近い住宅街にあり、南を向いて朱色の「山王鳥居」が建ちます。
▼由緒が細かく記載されています。
▼「ニノ鳥居」は石造り。
▼その脇に瓦葺きの「手水舎」。
▼水は休止中で龍の喉はカラカラ。
▼石灯籠に緑とその影、前方に社殿が見える参道はとても絵になって見えます。
▼神猿像は参道を向かず、一対が対面している形でした。
▼こちらは子猿を抱いています。親子でマスクと赤マントはユニーク。
子供のコロナ感染を心配して診察に来たようなイメージです。
あまり多くは見かけない親子猿かと思いますが、そう言えば、赤坂の日枝神社では横抱きにしていました。
▼狛犬も神猿像も昭和の建立。
▼いたずらっ子の子獅子は玉を齧っているのでしょうか?
▼拝殿は戦前の再建だそうですが、木造で趣と風格を感じさせられます。
由緒によれば、当社は809年「日吉大社」から分霊が歓請され「丸子山王権現」として創建されていますので、1200年の歴史ある古社になります。
主祭神の「大己貴神」は「大国主神」「大黒様」として広く親しまれ、農業・商工業・漁業の神、縁結び・福の神などとして崇敬されています。
▼本殿は江戸時代造営のものが残っています。
▼装飾、組物などはさすが時間の流れを感じさせられます。
▼参道途中にあった境内案内図は分かりやすいのですが、板面が拝殿の方に向いていて分かりづらい。
参道を真っ直ぐ進んできた時に目に入る方向に立たなければ、せっかくの境内図がややこしくなります。
などと言っていないで
▼「神楽殿」から境内を反時計回りに見ていきます。
▼「神輿庫」がズラッーと並びますが、手前の2階建の建物は「獅子舞台」だそうです。
▼その先、石の鳥居は先に狐が見えるので稲荷社でしょう。
▼鳥居は「稲荷神社」「大鷲神社」と二社連名です。
▼鳥居の脇でカワイイサイズの狐たちがお出迎え。
▼参道先で神狐が守る「おイナリさん」と「おトリさま」です。
毎年11月には「酉の市」が開かれるそうですが、ここ2年はどうだったのでしょうか?
▼古い御神木の根元が大切に保護されています。
樹齢700年、高さ30mの大杉は遠く中原街道を行き交う人々からも愛され、丸子の誇りだったそうですが、昭和初期に伐採されたそうです。
▼幹周りは8mもあるそうです。
▼社殿裏手になる境内の最奥左手です。写真左端に見えるのが境外の社務所です。
▼年月を経て、もう何の祠か像か分かりません。
▼木造社に守られている三猿の庚申塔もあります。
▼集められた古い稲荷社も相当年季が入っています。
こういう一角は、境内の中で異なる空気を感じることが多いのですが、当社では感じられず、乱雑感が先行しました。
異なる空気を感じさせる神域、シチュエーションは、ある程度意図的に人の手と感性によって造営されるものかもしれません。
▼バラバラになった狐像は、不気味な空気作りには最適な小道具ですが・・・。
▼「敬神」と刻まれています。
日吉大社から譲られた秀吉寄進の神橋の橋脚だそうです。
▼拝殿軒下には木遣会奉納の大きな額が掲げられていましたが、こちらは「木遣塚」。
鳶職、消防職などは何故か神社と相性が良いですね。