▼鈴森山 大経寺の御首題です。(日蓮宗・東京都品川区南大井二丁目)
いただいた2体の御首題の要素は全く同じですが、墨書きの筆跡は異なっていました。
▼鈴森山 大経寺の御首題。(2019年)
▼鈴森山 大経寺の御首題。(2013年)
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▼大経寺へはJR「大森駅」、京急「大森海岸駅」「立会川駅」のどちらからでも1km前後です。
▼最寄駅は地方競馬を牽引する「大井競馬場」の開催日には、競馬好きな人たちの姿も見られます。
「東京シティ競馬」の愛称もあり、近代的でオシャレな競馬場です。
江戸名所図会「鈴の森」には東海道を江戸に向かう大名行列が描かれ、東京湾には海苔を取るための柱が多く立ってます。
当時のこの付近は「一本松」と呼ばれていたそうで、図絵中央に描かれている海岸沿いに立つ松が「一本松」のようです。
▼こちらは横浜方面を向いていますが、明治初期の「鈴ヶ森」もまだ波打ち際です。
▼現在の「鈴ヶ森」は海岸線が遠くなって、海は全く見えません。
「鈴ヶ森」の名称は江戸時代から通称で、現在も住居表示としての存在はなく、
幼稚園や中学校、高速出口にその名が残っています。
一般的には「鈴ヶ森」=「刑場」と理解されたり、表現されたりしています。
▼大経寺は鈴ヶ森の第一京浜(R15)脇に建ちます。
寺のイメージに程遠い建物は1990年にモダンな造りになったそうです。
▼「鈴ヶ森刑場跡 大経寺」の文字が見えます。
▼寺の正面です。薄暗い入口の先が本堂ということでしょう。
▼薄暗い本堂エントランスは駐車場にもなっていました。
▼堂内はとても明るく綺麗です。中央に日蓮尊像はなく、釈迦如来でしょうか?
▼堂内手前の「寺務所」受付はおもしろく、まるで船舶の窓。初体験の受付です。
大経寺のもともとは、江戸時代に鈴ヶ森刑場の刑死者供養が起こりです。
ですので刑場が先に出来て、後に寺が建てられたのでしょうが、
寺と言っても当時は刑死者を大っぴらに葬ることはできなく、
ほんの小さなお堂があった程度だったようです。
明治期に入って刑場の廃止とともに寺の形がとられ、昭和に入ってから大経寺となったそうです。
▼刑場跡は寺の建物前の敷地内にあり、東京都の史跡に指定されています。
▼お題目が深く彫られた巨大な供養塔が目立ちます。
供養塔裏には元禄11年(1698年)建立の文字が彫られています。
当初の江戸の刑場は浅草と芝にあり、江戸市中の広がりとともに、
浅草から千住の「小塚原刑場」に、芝は1651年に「鈴ヶ森」に移されています。
二大刑場は、人目を遠ざけるように江戸の町の郊外へ移したのでしょう。
現在は第一京浜と旧東海道に挟まれ、それほど広くない跡地となっていますが、
当初は74×16mほどあったそうです。
二大刑場では有名な人物が数多く処刑されていていますが、
ほとんどは無名の人たちで、
さらに事件の未解決は許されなかった江戸時代、
無実の罪で罪人に仕立て上げられて処刑された人たちも半数近くあったと言われます。
▼「鯉塚」のほか馬頭観音、水難供養塔なども見られます。
▼火刑柱、磔柱が立てられた石の台です。
丸橋忠弥は磔、八百屋お七は火炙りの刑に処せられた説明看板が掲げられています。
▼そのガイド板の隣に大経寺住職による言葉が掲げられていました。
要約すると
世相紊乱し、礼節を忘れた老若が歴史探訪と称し、ただ物見遊山の如く訪れ来るのは嘆かわしい。
ここは観光地ではなく霊地たるをしっかり理解して、せめて諸霊の冥福を祈りなさい。
あたら大事な時間を無駄にせず、世に奉仕する行いをしなさい。
というような意味だと思います。
要約出来ず、ほぼ、そのままですが・・。
おっしゃる通りです!!!!
住職の嘆きは手に取るように理解できます。
見学には来ても本堂や墓、供養塔にも合掌しない探訪者が多いのでしょう。
先ほど本堂には手を合わせましたが、改めてこちらでも合掌します。
▼本堂受付脇に刑場跡の有料冊子が置かれています。