今回の記事に朱印掲載はなし。
以下、愚にもつかない記事なのでご了承を!
▼前回「かつうらビッグひな祭り」シリーズ最後の記事、最明寺の展望台から遠望された御宿・岩和田の山の上に建つオベリスクを目指し、最明寺を後にします。
御宿の海の海水浴場は南から連続して「浜」「中央」「岩和田」と名前を変えますが、もともと「岩和田」は海水浴場とは言わなかったかもしれません。
外からの訪問者は、すべてひっくるめて一つの「御宿の砂浜」です。
▼JR外房線「御宿駅」駅前からまっすぐ海岸方面に延びる道は、高いヤシの並木になっていて南国ムードを醸し出しています。高層の建物は少なくてホッとします。
そんな通りを進むと、やがて海が見えて来ますが、同時に御宿で唯一の喧騒に出会います。
▼皆さんは、ここを目指しているようです。現在は2代目の像のようですが、半世紀前からあり、人々が群がる理由があります。
▼月の砂漠像が童謡の 🎶「月の砂漠をはるばると 旅のらくだが 行きました・・・」の強かに郷愁を誘う曲をモチーフにした像だからです。
ここにやって来る人々は、過去であれ、現在であれ、未来であれ、それぞれ自分なりの「王子さま」と「お姫さま」を探しにやって来るのでしょうか?
あるいは幼い頃、耳にした曲から思い描いていら景色を確かめに来ているかもしれません。
アクアラインが出来ても、南房総はジミな地域です。観光的に代表される地名は、現在では「鴨川」くらいかもしれません。
東京の多くの男女にとって、海といえば御宿でもなく、九十九里でもなく、湘南です。
しかしワタシの中では湘南の海も、外房の海も同じライン上に浮かんでいます。
▼そして強力な味方は「乙川優三郎」です。
|
御宿とその周辺らしき地を舞台にした、この13編の物語はワタシの「御宿」イメージをバージョンアップしてくれました。
そんなストーリーを読んでいたから、改めてワタシの「御宿トワイライト」の記憶をもう一度確かめたくてこの海岸に寄り道しました。
月の砂漠像に群がる人々と、なんら違わない自分だけの御宿を探してみます。
ほんの一瞬の「真夏の出来事」でした。
「平山みき」も彼の車に乗って、こんな町をドライブしたかもしれませんが、千葉の海ではなさそう?
しかし、ピーカンの御宿を写真をモノクロにしてみてもイメージは遠く、黄昏とは程遠い。
ワタシの彫りの浅い記憶にある御宿の景観「真夏の出来事」とは違って当時の光も影も見出せません。
もう「カコ」は目にできません。マブタの裏の画像は、と〜く、と〜く海の彼方に消えてしまったようです。
過去は追わず、当初の目的「メキシコ塔」に車を進めます。
いやその前に、そこを通り過ぎ、メキシコ塔が建つ原因となった地を先に訪れます。
御宿の海岸線は少ない砂浜以外、山にへばりついてます。
一つ峠のような道を越すと
▼「ドン・ロドリゴ上陸地」にたどり着きます。
▼海岸に続く道を進みます。
▼400年前、村人たちに助けられたロドリゴたちはここに上陸したようです。
300人ほどの住民の寒村、御宿・岩和田の当時は貧しかったに違いない。
そこへ嵐で難破したスペイン船サン・フランシスコ号が見つかり、村人たちの必死の救助活動で317人の命が救われ、貧しく乏しい中からも着る物、食べ物を異国人に与えたそうです。
▼400年前のざわついた海岸が彷彿させられます。
がけ崩れのため通行禁止となっていて、砂浜へは降りられませんでした。
ロドリゴたちの一行は、新たな船ともに1年後の翌年に無事目的地のアカプルコに到着したそうです。
▼再び来た道を少し戻り「メキシコ塔」へ続く山道を登ります。
400年前の岩和田の救助活動から、日本とメキシコとスペインと三国の交流が始まり、これを記念して建てられた記念塔です。
▼メキシコ(墨)、日本、スペイン(西)、3国の国旗が掲げられています。
▼「オベリスク」と言って良い威容です。
▼「日西墨三国交通発祥記念之碑」と記されているようです。
ここは2度目の訪問ですが、最初に訪れた時は、夏なのに岩和田の町からここまで歩いてやって来ました。
光る海、そびえ立つ塔だけは何ら変わりませんが、変わったのワタシだけでなく周辺も当時よりかなり整備されています。
▼「抱擁の像」。2009年に日本との交流400年に因みメキシコから贈られた彫刻です。
どちらも目にしたことはないのに、400年前の岩和田の人々と「トワイライトシャッフル」の登場人物たちがシャッフルされてきました。
日本人のDNAは400年前と大きく変わっていないかもしれません。
そして、また御宿の砂浜の匂いは、いつもと変わらぬ夏を予感させています。