円福山 豊川閣 妙厳寺 豊川稲荷東京別院の御朱印
「とよかわ いなり」円福山 豊川閣 妙厳寺 直轄別院(愛知県豊川の飛び地境内)
(曹洞宗・東京都港区元赤坂1-4-7)
中央の文字は本尊の「豊川吒枳尼真天(とよかわだきにしんてん)」。
10年間の間に3ついただいています。
三体の構成オブジェクトに変化はありませんが、印が異なったりして全体のイメージはかなり違います。
▼御朱印は「豊川稲荷会館」という建物の左手、ご祈祷受付でいただきました。
「赤坂」と言ったら、赤坂サカス、Biz、TBS、虎屋、山脇、東急エージェンシー、赤坂泰彦?・・・、R246沿いだけでもキリがありません。
▼東京の一等地であり、繁華街なのです。
集印者は「赤坂??・・ 豊川稲荷! 日枝、氷川、乃木神社」などを最初に挙げる人が多いかも。
東京は坂が多い。大阪、京都、名古屋とは違い地形はデコボコでできてる都会です。
山あり谷あり、坂ありだ。谷名、坂名はやたらと多い。
赤坂、その昔は粋なことに「茜坂」と呼ばれていたこともあったらしい。
さらに遡って戦国時代は人継村(ひとつぎむら)と言われていたらしい。
字は変わってしまっているけど「一ツ木通り」という名が今に伝わっているということでしょうか?
昔の人たちの地名の付け方は素晴らしい。公募でもしたのかしら?
豊川稲荷の西側にある広大な深い森は警護が硬い。赤坂御所、皇族のお住まいです。
北端には迎賓館 赤坂離宮があり、その先はすぐ四谷駅へと続きます。
赤坂離宮の西側は学習院初等科があり、その裏の先は谷になっています。
その谷の一帯はかつて鮫河橋と呼ばれていました。現在の地名は南元町、若葉三丁目になります。
今やハイム、ハイツ、メゾン、レジデンスと何語かわからない大小のマンションやアパート、民家がひしめき合っています。小綺麗な みなみもとまち公園もできています。
鮫河橋、ここは江戸時代から大正期まで東京の三大貧民窟だった。
マサカなのです。赤坂、四谷からほど近いところに最下層の人々が暮らす家が1400戸近くあったといいます。
その様子は松原岩五郎の「最暗黒の東京」に詳しいのですが、坂口安吾や永井荷風もその様子を描写しています。
▼鮫河橋の貧民窟で残飯を売る様子。
残飯は市ヶ谷にあった陸軍士官学校から調達していました。
残飯が着くと、そこに住む人たちは各々残飯を買うための入れ物を持って黒山のごとく列を、群れを作っていたのです。
惣菜漬物類は手つかみで、ご飯類は量り売りで、汁物は桶から汲んで売っていました。 そんな時代がありました。
時は100年近く移り、この地の様相をすっかり変えました。
しかし、
貧民窟だったこの地は今も地形が入り組んで狭い道が続く迷宮です。迷宮は好きです。
その地からほど近い豊川稲荷。ここも神秘的な迷宮で好みなので何回も訪れています。
▼赤坂見附駅からR246を渡って振り返ります。永田町へ続く陸橋が先に見える、時の変遷が垣間見えるようです。
▼豊川稲荷に向かう途中、道路の反対側にこんな光景も見えます。
かつて屋敷に祀られていた神社でしょうか? いつか正体を確かめに行こう。
▼さて、迷宮への入り口にさしかかります。
▼山門手前のR246から北へ下る坂は「九郎九坂(くろぐざか)」。別名「鉄砲坂」。
道標に名称の謂れが書かれていますが、江戸時代の人々も「苦労苦坂」ともじったかも知れません。
それほど急な坂ではありませんが・・。
寺を解説する知識も力も無いので、何でもありの境内迷宮は説明は簡単にして主に写真だけにしましょう。
みなさん勝手に解釈して!ください。
「見て知りそ 知りてな 見そ」
ぜひ自身の目で知ってみましょう。
▼ライトアップ用で境内にこんなオブジェが並んでいる時もあります。
▼まずは立派な造りの手水舎で清めましょう。
▼本堂正面です。豊川稲荷では「本殿」と呼んでいます。
1年中、参拝者が絶えません。
▼本殿前のメインのキツネさまは顔だけ見たら、きっと狐とは理解できません。
当院は江戸時代、大岡越前守忠相公が信仰していた豊川稲荷の分霊が祀られ、
赤坂一ツ木の大岡邸から明治20年に現在地に移転遷座し、現在に至っています。
本堂内に上がったら勤行中で「転読」の最中でした。
蛇腹折の経本を、上から流すようにパラパラパラッと扱い、その経の一部だけを読むのです。
省略形の拾い読みですね。
TVなどではよく目にしますが、実際「転読」を目前にしたの初体験でした。
大般若経だったのかしら?
▼さて、迷宮境内を巡ってみましょう。
▼本殿の前方に建つ大黒堂の「招福利生大黒天」。
▼この大黒天とは別に境内のあちらこちらに七福神が祀られています。
境内に点在する像を探しながら七福神巡りができるというものなのでしょう。
▼境内左手奥に進む参道にも一対のキツネが迎えます。
▼左は「子だき狐」。
▼その先の右手に大きな朱色の鳥居。「奥の院」への参道ですが後にします。
▼周りは狐やさまざまな像でかなりの迷宮。
▼「狐塚」です。
どこに目をやってもキツネ。
▼こんなイロっぽい目をしたキツネも・・。
▼「三神殿」の参道と鳥居。
▼「三神殿」は「宇賀神王・徳七郎稲荷・太郎稲荷」のそれぞれが祀られています。
▼大きな朱色の鳥居の先は「奥の院」です。
▼「融通稲荷」です。
▼「弁財天」は本殿左手奥。
▼ヨクフカ様用におなじみのザルも用意されています。
▼さらに奥は「叶稲荷」。
さして広くない境内に神々がひしめき合い、節操という言葉は何処に行ってしまったのか? と思うくらい、東京には数少ないカンペキ感服する迷宮です。
▼名奉行と言われた「大岡越前守の廟」です。
▼「子宝観音」脇の記念植樹は「森昌子」の名が。昭和52年は遠く、1977年です。
▼「豊川水神社」。
▼さぁ!そろそろ帰りましょう。
▼何でしょう? でも狐像や神仏像ばかりだった目には、口直しのワインのような存在。
境内を出れば街は夕刻。
見附駅入口のこの通りの先と、さらに右手に平行する通り界隈に進むとバブル期の末裔かなと思われる「ダーキニー」たちが蠢く迷宮に迷い込めるでしょう!
▼元スラム街から進む寺社めぐり。
[2017.11.26-rewrite 2023.08.08]