等々力 玉川神社の御朱印
▼玉川神社の御朱印です(2020年)。
今回いただいた御朱印はスタンプになっていました。
拝殿に掲げられている社号額と同じ書体になっています。
▼玉川神社の御朱印です(2013年)。
2013年にいただいた時は、宮司さんに直書きしていただき、初穂料も受けとってもらえなかったので気持ちを賽銭箱に落とさせていただきました。
▼御朱印は左の窓口でいただけます。
▼世田谷区に「玉川」の名称を持つ神社は複数あります。従ってここの神社は「等々力 玉川神社」として呼ばれているようです。
▼隣接する「満願寺」に参拝後の訪問でした。
冒頭で「玉川神社」は複数あると書きましたが「多摩川浅間神社」もあります。
そもそも東京の東側に住む人間にとって「多摩川」と「玉川」の使い分けが理解できません。
川の名称は「多摩川」で間違いないでしょう。
しかし地名は圧倒的に「玉川」が多く、駅名は「多摩川」と「二子玉川」の2つがあります。
通りの名称も「玉川通り」や「多摩堤通り」などと混在して使用されています。
おまけに多摩地域は「三多摩」や「奥多摩」、単に「多摩」とも呼ばれています。
さらに「多磨霊園」は「磨」の文字を使用しています。
チンプンカンプンです!
どうやら江戸時代までは読みは「たまがわ」で一緒だったものが、漢字ではそれぞれの地域で「多摩」「玉」「多磨」「多麻」などと勝手に、バラバラに使用されていたそうです。
明治期になって「多摩川」に統一しようとしたものの、人々は川の名称以外は、お上のいうことを聞かずに、それまでの漢字を使用し続けている、ということのようです。
それでも整理された方かもしれません。
「玉川」には古くから「玉川村」があったそうですし、「玉川上水」を開削した兄弟名などの話もあり、「多摩川」周辺はやはり複雑です。
その「多摩川」を挟んで東京と川崎にそれぞれ「等々力」と「野毛」という地区があります。
これはよくあるパターンで昔は同一地区だったのが多摩川の氾濫などで川の流れが変化して地区が分断されたのでしょう。
いずれにしても「タマ」はクセモノです。
話は神社とは関係なくなってしまいましたが、
▼明治期に「熊野神社」から社号を改めた「玉川神社」です。
手水舎は境内手前と拝殿手前とに2つありましたが、拝殿近くのは使われていないようです。
▼同じく拝殿手前に狛犬が新旧、それぞれ2対あります。
▼新しい方の1対は凛々し過ぎです。いや、過ぎることはないのですが・・。
あまりに凛々しいと滑稽に感じることもあります。カワイイもんです!
▼戦前に再建された社殿は重厚な木造で風格があります。
▼7年ぶり2度目の訪問ですが、この社号額は覚えがありません。今回いただいた御朱印のスタンプはこの文字を再現しているようです。
▼巫女さんがシャランシャランと振る鈴が置いてありました。
「神楽鈴」というそうですが、拝殿に鈴緒がついて吊り下げられている鈴と同じ意味を持っているのでしょうか?
ガラガラッ、シャランシャラン「お参りに来ましたよ」と神様に挨拶するものなのでしょう。あるいは祓い清める役目かも。
▼合祀されているので天照大神、伊邪那岐神はじめ大勢の神様がお住いの本殿は木に隠れていました。
▼社殿右手にあるのは「石獅子」。谷に落とした両親は我が子から目を離しません。
▼落とされた子獅子は「ナニクソッ!」と這い上がるタイミングを伺っています。
現代の人間社会に置き換えたら即「虐待!」と叱られそうですが、その程度とラインがわからない人間と違って、獅子の目は厳しくも見守り続ける眼差しです。
しかし、必要な時には試練も与えないと子供は成長もできず、甘ったれたコドモ大人になってしまいます。
試練は体罰とは全く異なりますが、禁止されているものの時として真剣な体罰ならまだ理解ができます。
しかしメディアで連日の如くニュースされるのは、自分勝手で大人になりきれず、忍耐も、人の命の尊さも理解できない人の非道で酷い、不合理な虐待ばかりです。
確かに若い夫婦に初めての子育ては大変でしょう。日々自分自身を見失いそうになる不安と焦りばかりかもしれません。
そんな時、この神社にあるような「石獅子」たちの姿を心落ち着かせて見つめてみると、試練を与えるとは虐待とは違う側面、子育て、親の在り方のヒントが見えてくるかもしれません。
▼楠は見事にどっしりと腰を据えています。ケツがデカイとも言います。
忠魂社と地元に貢献した人の顕彰碑が続きます。
訪問神社とは直接関係のない文字、言葉を並べてしまいました。
「タマ」にはいいかとも思いますが、度々ですね!