高田 天満宮の御朱印
「たかた てんまんぐう」主祭神:菅原道真(神奈川県横浜市港北区高田西3-25-1)
きちんと墨書き、捺印された書置き御朱印は
▼この風情ある建物、社務所でいただきました。
▼天満宮へは地下鉄「高田駅」から500mもないので数分で表参道に到着します。
神社名も駅名も「高田」は「たかた」と濁らずに読みます。
「高田」は10世紀の文献に「高田郷」の名称が見られるそうです。
高台となる丘陵地帯のこの地域は、貝塚や弥生時代の遺跡などが残っているので古くから人々の営みがあったのでしょう。
▼そのような地域のほとんどには神社があります。
ここで標高20m以上。石段上の境内はさらに20m以上高い位置にあります。
▼「一山林参段壹畝二十七歩」初めて見かけた言葉です。何を説明しているのでしょう?
「一山林参段」が分かりません。3段は誰でもわかります。
「壹畝二十七歩」は山林の広さを表しているのでしょうか?
あるいは石段の数を説明しているのでしょうか?
▼とにかく登ります、1畝目。踊り場までを「畝」と勝手に理解します。
▼2畝目。そこそこ手強い相手でもあります。
▼3畝目。しんどくて途中から段数を数えるのを忘れました。
三段×27歩=石段の数81です、おそらく!
登段しましたが息切れです。
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(後日調べ)
1段(反)=約999平米=300坪、1畝=約99平米=30坪、1歩=約3.3平米=1坪
一歩(いちぶ)< 一畝(いっせ)< 一反(いったん)< 一町(いっちょう)
という面積の単位でした。
「一山林参段壹畝二十七歩」は「一山林参段+壹畝+二十七歩」という意味で、計算すると950坪以上になりました。
高田天満宮の敷地は、おおよそ1000坪ということでした。
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▼社殿まで真っ直ぐな参道が延びています。
▼やはり結構な高さを登ってきました。高低差20m以上あります。
▼石段上の狛犬は荒削り。それとも風化した?
憎めない表情です。
▼参拝者の姿もなく少し殺風景に感じられる境内。
少し長いのですが、当社の由緒から引用です。
1325年、当地申酉の方角から光物が現れ、しきりに震動。夜も周辺は昼のように明るく、光物は当地の山中に鎮ったものの昼夜電光が乱れ飛び、人々近づくことが出来なかった。この時に小蛇が梅の若木の下に現れ、異香を放って正しく観音菩薩が天神として垂迹したと思われた。「これまさに衆生済度の方便、大慈大悲の誓なり」と、興禅寺の弁殊法印が先達となり榊の枝を取って前に置くと、小蛇は榊枝の上に留った。時に領主桃井播磨守直常、近く之を見聞きし信心止みがたく、社殿を建立し、当所一帯の氏神としたという。
由緒の内容は易しいようでも、よく解らない部分もあります。
勝手に理解すると、稲妻や蛇を道真の怨霊と捉えて、それを鎮めるために天神として祠に祀ったのでしょうか?
由緒には、
当地申酉の方角=太宰府、光物・振動=怨霊の稲妻、梅の若木など道真と関係のある小道具が揃って出てきます。
そもそも天神社、天満宮の多くは道真の鎮魂が目的でもあったことでしょうし、
また道真は蛇に姿を変え人を苦しめた話もあります。
そうとしたら当社の創建は1325年で、道真没の903年から400年以上経過しています。
やはりよく分かりません。
形状の美しい社殿は江戸時代の建立のものが改修を加えられながら現存しています。
▼菅丞相霊さんにご挨拶いたします。
茅葺だった屋根は戦後の改修で瓦葺きになったそうです。
▼本殿はおそらく覆われているのでしょう。
▼社殿右手の小山にいい雰囲気の補色関係が見えます。古そうな手水鉢も見えます。
▼鳥居も社も朱色ですから稲荷社ですね。
▼「出世稲荷」さんでした。強烈な朱色です。
▼そのすぐ隣にも朱色の祠なので同じく稲荷社でしょうか?
▼違いました「招福弁天」です。
▼「菅公千年祭紀年碑」は「菅公」の所で折れ手しまったような跡があります。
イナズマか地震で折れたのでしょうか?
やはり道真の魂はまだ鎮まっていないのかもしれません。
右の小さな石碑には「堅牢地神塔」と彫られています。大地を司る地神です。
「菅公」はやはり地震で倒れて先端が折れたのかもしれません。
「堅牢地神塔」の方が古そうですが・・・。
▼頑丈そうな「戦没者慰霊碑」は折れていません。
▼植物の名称は全くダメですが「サルスベリ」だけは別です。
花枝が花火のように広がっていました。
▼当社のすぐ北にある寺院の記事。