▼松陰神社の御朱印(2020年)。まるで印刷されたような筆跡の神社名ですが、朱印帳に直書きいただきました。
10月27日の吉田松陰命日には「例大祭御朱印」がいただけるようです。
▼2020年の参拝では檜でできた松陰「自賛肖像」の栞もいただきました。
▼御朱印はこの授与所でいただきます。
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道路の交差点名で「○○神社前」「○○寺前」とかの名称はよく見かけます。
しかし、具体的な寺社名を駅名にしている鉄道路線は、それほど多いわけではありません。
寺社名を駅名として付けられる場合は、当たり前に寺社の存在が先にあっての事でしょうが、駅名として用いられた事で、その寺社がさらに発展できる事も、きっと事実でしょう。
鉄道駅が出来て、寺社がさらに有名になれば、鉄道利用客も多くなりWin Winの相関関係になりますが、
昨今の地方では、そうとも言い切れないケースも多々あるので、何とも言えません。
▼ともあれ、世田谷の松陰神社は WIN の部類であることは間違いないでしょう。
▼「松陰神社前駅」から300mもない場所に、この綺麗な参道を構え・・・
松陰を慕ってやってくる神社の参拝者を迎えられることは、誇りであり、幸せでもあるかもしれません。
当地に住む人々にとっては、です。
▼上の夏の写真も、晩秋には黒い鳥居のバックは赤くなります。
▼冬間近な参道の木々たちは、夏のバケーションに疲れ果てています。
▼でも半年後、彼らは再び目を覚まし、繰り返しのホリデーを楽しんでいるかのように、エネルギーたっぷりの青葉を惜しげも無くさらけ出します。
自然の営みはオモシロイと言うか、その営みが人間も同じであることが面白く感じるのですが、
人の営みは自然と同じではなく、自然に合わせてきたというのが正しいのでしょう。
現代では少し様相が異なりますが・・。
豪徳寺は、安政の大獄で松陰を刑死させた井伊直弼の墓がある菩提寺です。
目と鼻の先のような位置関係で、松陰と井伊直弼それぞれ所縁の寺と神社が存在するのも因縁めいていて興味が湧いてきます。
▼手水舎は1927年の造営。
▼神楽殿は1932年、毛利家から寄贈されたそうです。
▼「松陰神社道標」は明治期に乃木希典による寄進で、旧大山道に建てられていたものを移設しています。
▼ご存知吉田松陰を祭神とする神社ですので、松陰の像がいくつか見られます。
▼平成に完成されたブロンズ像の横顔はキリッとしています。
▼こちらは少し古い像のようです。上のブロンズ像と同一人物とは思えない表情です。
▼松陰神社は明治期の1882年に創建され、現在の社殿は1928年の造営。
松陰の祭神名は「吉田寅次郎藤原矩方命(よしだとらじろう ふじわらのりかたのみこと)」と呼ぶそうです。
この地はもともと毛利藩主の抱え屋敷があったことから神社の始まりとなっています。
▼扁額は「松隂神社」とされ旧字が使われています。
▼境内右手に、山口の萩の松陰神社に保存されているものを模した「松下村塾」が建ちます。
松陰が塾頭だった頃の塾生は50人ほどいたそうです。
しかし、幕末の動乱期で松陰はじめ、高杉や久坂たちの塾生の多くが若くして命を落としています。
生き残った主な塾生 伊藤博文、山縣有朋らは新政府で活躍しています。
模造された塾とは言え、現代では考えられないほどの情熱を抱いていた若者たちの息吹が感じられる、と言ったら大げさでしょうか?
▼実際の塾の屋根瓦も展示されています。
▼境内左奥にも鳥居が建ち、墓域になっているので進んでみます。「吉田松陰先生他烈士墓所」とされています。
▼右に折れるともう一つの鳥居は、木戸孝允(桂小五郎)の寄進です。
▼鳥居をくぐった正面に松陰の墓が立ちます。
松陰は1859年、伝馬町牢屋敷で刑死しています。
その4年後の1863年、小塚原回向院にあった墓が、高杉や伊藤ら松陰の門人たちによりここに改葬されています。
さらにその後の1882年の神社創建へとつながっています。
▼質素な墓跡は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と辞世の句を詠んだ松陰らしいかもしれません。
▼片隅には長州藩の戦死者招魂碑も建ちます。
▼長州藩士「中谷正亮源實之」の墓碑。
中谷正亮源實之は松陰なきあと松下村塾を監し、35歳、江戸で病死しているそうです。
▼やはり松陰の門人だった子爵 野村靖も遺言により松陰の墓域内に埋葬されています。
バラバラに埋葬されていた松陰の門下生たちが、一堂に集められ、松陰とともに眠る安住の地とされているのでしょう。
墓所は長州征伐の際、幕府によって破壊されています。
その後、謝罪の意を込め徳川氏から灯籠が奉納さています。
▼松陰門下生の縁故者により奉納された石灯籠には錚々たる名が刻まれていました。
▼松陰が亡くなって約160年後の平和の象徴たちです。