三宮神山 勝専寺の御朱印
「しょうせんじ」浄土宗(東京都足立区千住2-11)
通称「あかもんでら」。
閻魔像が開帳される「閻魔開き」の日に、散華も一緒にいただいた御朱印です。
▼勝専寺の御朱印「閻魔大王」。
▼勝専寺の御朱印「千手観音」。「町名起因」と筆書きされているのを wiki から引用です。
新井政勝の父・新井政次が荒川(現・隅田川)に網を投じたところ、千手観音像が網にかかったのが寺の由緒だという。この千手観音は当寺の寺宝となっており、地名「千住」の由来といわれている。
▼勝専寺の御朱印「本尊 南無阿弥陀仏」(2014年当時はこの御朱印のみ)。
▼2022年現在は4種類の御朱印がいただけます。
本尊は2014年の「南無阿弥陀仏」から「阿弥陀如来」に変わっています。
▼御朱印は境内右手奥の庫裏(寺務所)でいただきましょう。
玄関には御朱印の案内はありませんが、頑張ってピンポンしましょう。
▼中に入ると正面にいらっしゃる僧侶さんに案内していただけます。
▼左手は綺麗な庭が見える広間があり、足元には御朱印とお守りの案内があります。
▼「閻魔開き」の日だけの披露と思われます「地獄絵図」の掛け軸も見られました。
▼いつかは行くことになるかもしれない世界の住み心地はヨサゲではなく、この世のウクライナと同じかもしれません。
▼勝専寺へは「北千住駅」を西口に出たら徒歩5分くらいです。
▼西口の駅前デッキに出ると「○ I ○ I 」が目に入ります。
▼でも北千住はあの「イトーヨーカドー1号店」があった街です。写真は2010年。
▼デッキ上から見る日光街道方面の先にあった「1号店」は、最近無くなってマンションと食品専門の「ヨークフーズ」に変わっています。
▼デッキ中央下に見える路地に進みます。
▼ガード脇の「飲み屋横丁」を通り抜けます。
▼googlemapの徒歩案内に従って、途中から右折してこんな全くの路地を抜けます。
▼極狭路地を抜け、左折すれば「旧日光街道」。
▼旧日光街道は「ほんちょう商店街」になっています。
▼活気のあるこんな商店街がある街は健全で大型スーパーなど不要です。
今や「Ario」として東京周辺や地方の商店街を脅かしているイトーヨーカ堂1号店があることさえ、皮肉にも忘れられてしまう街かもしれません。
▼「ほんちょう商店街」をわずかに進んで右折。先に赤門が見えます。
1月と7月の15・16日には寺に向かう通りに屋台が出ているので分かりやすいのですが、普段ですと単に住宅街。
▼赤門にたどり着くまでの途中、通り脇で微妙な石造物に出会います。
▼狸らしいのですが、オスメス不明。
▼この赤門は1月と7月の15・16日、年間4日間だけ開けられます。
▼他の日は、門は閉ざされています(2014年)。
赤門が開くのは地獄が「休日」の時だけです。
地獄の閻魔大王や鬼たちに労基法はなく、有給休暇もありません。
日本だけでも年間130万人の死亡者が送り込まれてきます。
閻魔大王は1日3000人〜4000人を裁かなければなりません。
鬼たちは地獄に選別された亡者たちを日永 懲らしめる作業漬けになります。
あまりに酷な働き時間に対して、1月と7月だけ休日を設けることにしました。
それが「閻魔開き」であり「地獄の釜蓋開き」のようです。
「閻魔開き」や「地獄の釜蓋開き」、また「かまぶたついたち」の確かなことは知りません。
正確なことは皆さんでググってください。
しかし、地獄の鬼たちも休む1月と7月を見習った商工人たちは、
やはり365日休みを与えず働かせ詰めの奉公人、主に丁稚たちに
「薮入り」として1月と7月だけ休日を与えるようになっています。
その7月地獄の休日は、いわゆる「お盆」です。
東京以外の日本は旧暦の8月が「お盆」ですが、地獄が休日の間になくなった先祖たちが地上に帰ってきます。
先祖たちは、ほんの数日の滞在で16日の夕方には帰っていくことになります。
「地獄の釜蓋」が閉まらないうちに帰るということなのでしょうか?
もとより具体的に「地獄」はありません! 同じく「天国」も無いでしょう!
それは人々の心にだけに存在あるのでしょう。
地獄の内容は話や絵、書き物などで知っていなければ夢にも出てきません。
「ジゴク」「ゴクラク」の話になるとドンドン話が膨らんでしまいます。
すべて訳分からない話のはずなのに。
▼送り込まれた先の地獄門が閉ざされていたら幸いかもしれません。
▼2022年はOPENの閻魔堂です。
▼赤門寺のエンマさまは意外にもユニークな表情でした。裁決はユルイかも?
▼境内は広くはありません。
▼いただいた「千手観音」の御朱印とは違い、ここは「馬頭観音」。
▼六地蔵たちの脇に墓域入口があり、素晴らしい書体の扁額は「御墓所」。
▼縁日で賑やかな境内を出ます。
▼普段の南にある寺入口は静かなものです。
創建は鎌倉時代。外塀も本堂と同じく赤煉瓦貼りは明治時代の造営。
本堂などの煉瓦はインドの寺を模した造りだそうです。
さて帰ります。
▼後で知ったのですが、照近くの高層建築は「森鴎外旧居・橘井堂森医院跡」だそうです。
▼その脇を通りながら北千住駅に向かいます。
▼「森鴎外旧居」方向に振り向いても飲み屋だらけ。
▼藪の中に迷い込んだように脇の路地を覗き込んでも飲み屋。
まだこれから職場に戻らなければならない。
▼でなければ、確実にどこかの店に吸い込まれていたはず。
本来なら「薮入り」。昼間っから酔っ払ったとしても、休日のエンマさまも赤い顔して酔っ払っているはず。お咎めは無いでしょう。
▼この日は残念ながら職場に戻らなければならない身です。
後ろ髪を引かれる思いでエスカレータに足を乗せます。
千住は日光街道の宿場町。
飲み屋の写真ばかり並べましたが、宿場町ならではの見所も残っている街で、御朱印をいただける社寺もたくさんあります。
もちろんカフェ、グルメも激戦区です。