仙波東照宮の御朱印
「せんば とうしょうぐう」主祭神:東照大権現(埼玉県川越市小仙波町1-21-1)
書置きの日付はセルフで入れています。
▼拝殿前に書置き御朱印が用意されていました。
「お金は御朱印を取ってから賽銭箱へ入れて下さい」
一見普通の文章ですが、どこか違和感を覚えます。
「御朱印を取ってから」の文言は取っても良いでしょう。
▼東照宮は神仏分離以前の管理であった「喜多院」の南に位置します。
「喜多院」の南というより、同じ敷地内といったほうが分かりやすいかもしれません。
神仏分離とはいえ、現在でも「喜多院」のHPに「文化財・建造物」として紹介されています。
また「川越八幡宮」の境外社としても紹介されています。
▼川越をイメージすると観光客の多いこんな街角になりますが・・・
▼一歩脇道に入ると、どこにでもある地方の街並みです。
▼そんな驚くほど何でもない住宅街の通りに面して東照宮の入口があります。
「日本三大東照宮」の一つに数えられ、wiki でもそのように紹介されています。
「日本三大東照宮」のうち「日光」と「久能山」は誰しもが認めるところでしょう。
しかし度々記事にしていますが「日本三大・・・」というのは、根拠・謂れのないものがほとんどでしょう。
3つ目の東照宮はここ仙波東照宮のほか、愛知県の滝山東照宮や、鳳来山東照宮もそれぞれ「日本三大」として wiki でも紹介されています。
しかし、あれほど立派な上野東照宮や世良田東照宮は「日本三大」に数えられていません。
あまり意味のない「日本三大」ですが、そのように覚えて欲しいという「3番No.2=目側」の希望かもしれません。
それでも「3つ目」は国の重文に指定されているのがほとんどです。
日光と久能山を除いて、3つ目は任意で決めて良く「お好きにどうぞ」ということかもしれません。
「日本三大」を名乗っても、どこからもお咎めはないはずですので。
▼さて、朱色の重文の一つである「隋神門」をくぐるとまっすぐに参道が延び、石橋を渡った先に「寛永」の文字が刻まれた石造の鳥居が建ちます。
▼鳥居をくぐった先はやや急な石段が続き、上方に社殿らしき姿が見えます。
▼石段は撮影次第で勾配の急・緩が違って見えます。そこそこ急勾配です。
▼壇上の境内に入ると古い水盤は、やはり「寛永」の文字が彫られていました。
▼狛犬も寛永年間の建立だそうで、元々は江戸城内にあったものが移されたそうです。
近年に建立された狛犬ですと、こんな造形、表情は見かけません。
やはり江戸時代の造りであることが色濃く出ています。
1616年、駿府の徳川家康が没し、その遺骸を日光山へ移葬する途中、ここ喜多院に立ち寄っています。
そして、喜多院の住職だった天海により四日間の法要が営まれたことから、その後の1633年に東照宮が建立されています。
さらに後の川越の大火により焼失された社殿は、家光の命により、川越藩主堀田正盛が奉行として1640年に再建されたものが現存しています。
▼家康公にご挨拶「400年、安らかですか?」。
手が加えられているのでしょうが、約400年前の東照宮です。
▼拝殿の奥は平唐門(ひらから)と瑞垣に囲まれた煌びやかな本殿が垣間見えます。
▼普段はここまでの参拝で、平唐門の奥は特別公開される日もあるそうです。
▼石灯籠は歴代川越城主の奉納によるもので、松平信綱や柳沢吉保などの名も見かけられます。
▼壇上の境内から石段を下ります。やはり急階段です。
▼石段を下りたすぐ先を喜多院の方へ行くと朱色の神橋と鳥居が見えました。
反りの大きい神中島に社殿ですから弁財天? 厳島神社?
▼厳島神社でした。
関東を中心に全国にある東照宮ですが、その姿も様々。
千葉県船橋市の船橋東照宮は日本一小さい東照宮を自認しています。
しかし「日本三大」を自認、あるいは候補ともなれば、重文であったり、それなりの煌びやかな姿をしていたりします。
川越の仙波東照宮の平日は、石段上の扉が閉まっていて、拝殿までたどり着けません。
お出かけの際は要Check! です。