専称山 西念寺の御朱印
「さいねんじ」浄土宗(東京都新宿区若葉2-9)
2017年の参拝時の御朱印に選択肢はなく、左の「阿弥陀如来」だけでした。
一見して「鬼の平蔵」と読みそうになります。
江戸時代には「鬼」と呼ばれた人がたくさんいたのでしょう。
江戸時代ばかりでなく昭和にも「鬼の八兵衛」という人物がいました。
悪意の形容ではないのですが「鬼」はどの時代にもいるようです。
現代的なイメージの忍者がデザインされています。
▼御朱印は境内に入って左手にある立派な寺務所・庫裏の扉をガラガラと開けて・・。
▼2022年は寺務所前にも御朱印の案内が出ていました。
▼寺務所内部に入ると、もっと分かりやすい案内がありました。
書置きを含めれば4種類の御朱印をいただけることになります。
▼御朱印帳のカラーは2種類。
小型版の朱印帳ですが、1500円は今時としては良心的な数字でしょう。
忍者「ハットリくん」とは違う、 NINJA「服部くん」がデザインされています。
忍者御守も500円。「NINJA」は諸外国の方に人気かもしれません。
有名な「須賀神社」や「陽運寺」からもほど近いところに位置します。
▼車なら、寺の北を走る半蔵門から新宿に至る「新宿通り」から進めば200mほどで難なく門前に着きます。
途中、江戸時代には徳川に仕えた「伊賀衆」の組屋敷があった「伊賀町」と呼ばれていた住宅街を進みます。
▼しかし、2022年の訪問は寺の南側になる谷から「観音坂」を登り、その突き当たりが、この写真の奥でした。
超狭い通路は一通でもなく両方向の道路。
人が歩いていても車とすれ違うのは容易ではありません。
対向車が来たらどうしましょう?
本来こんな狭い道路は車の進入禁止にすべきでしょう。
でも「観音坂」上の突き当たりから写真手前までは50m。
▼一人の歩行者とすれ違っただけで難なく門前にたどり着きました。
▼門扉には金色に輝く「三つ葉葵」。これがあると徳川家と何らかの繋がりありです。
境内には余裕で数台の駐車スペースがあります。
参拝、見学訪問の駐車なら何のお咎めもないでしょう。
▼昭和に再建された「本堂」。
工事中で見えない建物もありましたが、本堂と寺務所の他に目立つ建物はありません。
西念寺は徳川家康の譜代家臣で徳川十六神将に数えられる服部半蔵(正成)の開基と伝わります。
戦国時代、徳川家康は長子 信康の乱心という噂から織田信長に信康の切腹を要求させられます。家康は断腸の思いで信長の要求を飲みます。
その信康の切腹介錯を、家康に仕えていた服部半蔵が命ぜられています。
半蔵は仕えていた主君に刃を向けることはできず、その命を果たせずに仏門に入り、
後に家康とともに江戸入国し、非業の死を遂げた信康公を弔う庵を設け、剃髪出家し「西念」と名乗っています。
もう一人別にいた「槍の半蔵」とともに「鬼の半蔵」とも呼ばれていました。
▼本堂を覗いてみますと奥に、半蔵が家康から拝領したと伝わる槍が見えました。
▼墓地に続く本堂右手に「服部半蔵正成」の墓が建ちます。
「服部半蔵」の父は、いわゆる「忍者」だったと言われていますが、
「正成」は三河で生まれ、松平氏(徳川)に仕えた「十六神将」のうちの一人で、
忍びの者を束ねて指揮官の役目も担った事のある武将です。
よく言われるような「伊賀忍者の頭領」ではな買ったそうです。
しかし以後、十数代続く服部半蔵ですが、
多くの伝承が残る通称 半蔵(はんぞう)は二代目の「正成」です。
▼墓石というか供養塔に刻まれた文字「三州住人 服部石品 五十五才」。
「三洲」は三河のことですが「石品」は意味わかりません。
▼「慶長元年、霜月十四日」の文字。
▼「安誉西念大禅定門」は半蔵の法号のようです。
どうやら「服部半蔵」のイメージは、
当たり前ですが「忍者ハットリくん」のそれとは大きくかけ離れてているようです。
史実も面白く、創作も面白い「はっとりクン」です。
▼半蔵の墓の真ん前で、やけに存在感を示すのは「月影塔(合祀墓」。
観音や地蔵などの菩薩が、それぞれ個性的な表情をしています。
▼本堂方面に戻って寺を出ましょう。
▼崖下は別の寺院。多くの寺が集まる新宿区若葉と須賀町です。
▼ご近所の記事です。