大森浅間神社の御朱印
「おおもり せんげん じんじゃ」主祭神:木花咲耶姫命(東京都大田区大森西2-2-7)
中央の朱印は「恩頼」。「おんらい」または「みたまのふゆ」と読み、神や天皇などから受ける恩徳だそうです。
「ふゆ」とは、「振ゆ」「殖ゆ」という意味です。
「沢田」や「澤田」の印は、旧大森村の澤田という地名を表しています。かつては海の近い沢地だったのでしょう。
▼当社は京急線「平和島駅」から西へ650mほどの位置に鎮座します。
大森の江戸時代は「浅草海苔」として販売される海苔養殖が盛んなん地域でした。
大正時代以降は海岸沿いに工場建設が進出し、海苔などの漁業が失われています。
▼そのころの昭和初期、1930年の「大森海岸」を川瀬巴水が描いています。
(写真は「東京富士美術館」)
▼神社の鳥居は「環状7号線」に面して建ちます。
東京の大外を環状する「環七」に面して鳥居を構える神社はいくつかあります。
それらの多くはおそらく「環状7号線」の開通のため神社境内を削られたり、遷座させられたりしたものなのでしょう。
当社も区画整理や道路拡張などのため、いく度か遷座して現在地に落ち着いています。
▼車で他に入口が見つからないので、環七通りから直接左折して鳥居をくぐりました。
境内は狭く駐車できないのかと思いましたが、
ちょうど境内を清掃中の女性に駐車可能かお聞きしたら、丁寧な案内で手水舎の脇に駐めることができました。
▼鳥居をくぐり注連柱の先の足元に「百度石」。
この石からスタートして、拝殿をゴールとして参拝することを100回繰り返す。そのくらいなら何でもないことのようですが、その都度、お願い事などをするのでしょうから大きな時間を要することは確かでしょう。
現代ではいろんな考え方があって、
自分の年齢数や、自分が決めた数で行うことも「お百度詣り」とされるそうです。
単に100という数が肝心ではなく、心を込めて参拝し、祈願する気持ちが大切だそうです。
作法を無視するものではありませんが、「カタチ」より「ココロ」なのでしょう。
▼鳥居をくぐれば、すぐ左手に「手水舎」です。
水盤は乾いていましたが、水はしっかり出ていて清めることができます。
▼きれいに掃き清められている参道は短いのですぐに拝殿に近づきます。
由緒によれば、江戸時代中期の享保年間に駿河の富士浅間大社より分霊が勧請されたのが神社の創建とされています。
江戸時代中期ですので当時既に「富士講」が盛んだったそうで、富士登拝に先立って当社に参拝し、木花咲耶姫命の鎮まる霊峰富士に向かったそうです。
2022年11月ですが、狛犬たちはまだマスクが外せません。
▼子獅子もマスク!!
▼現社殿は1940年の遷座と同時に造立。
その後の東京大空襲の戦火を免れており、人々の火防、火除の信仰も篤いそうです。
祭神の「木花咲耶姫命」に参拝のご挨拶です。
装飾は少ないものの木造の拝殿は、まだ現役バリバリの風情です。
▼桜の社紋は祭神「このはなさくやひめのみこと」にちなむ印です。
▼本殿もクラシック感のある木造のしっかりしたものが残されています。
▼よく見ると本殿向拝には精緻な装飾彫刻が施されていました。
▼見事な彫刻に見えますが、外からではこのアングルと望遠で精一杯!
▼本殿の背後です。
▼社殿左奥になる境内南側にも鳥居が建ちます。
▼中央で連結された笠木・島木部分。
▼その鳥居手前は「稲荷社」です。
▼社殿内のカワイイ神狐もマスク姿。やはり鬱陶しいようです。
▼神社入口近くの手水舎の裏は富士塚のような造りの区画になっています。
▼様々な記念石碑や灯籠が建てられてる中で、大きな「忠孝」の文字が目立ちます。
それほど広い境内ではない神社でしたが、社務所の裏は「浅間幼稚園」になっているので、かつてはそちらも境内敷地だったのでしょう。
平日は園児たちのにぎやかな声が聞こえるのかもしれません。
気持ちよく整えられた境内は清々しさが広がり、環七という騒々しい通りに面していることも感じさせない、そして御朱印対応も丁寧なとっても感じの良い神社でした。