かぎ▼尾久 八幡神社の御朱印です。(東京都荒川区西尾久三丁目)
「都電神社めぐり」の電車イラストスタンプが押されています。
尾久の街を知らない方は「おぐ」と読めないかもしれません。
「おひさ」ではありません。「おぐ はちまん じんじゃ」です。
▼当面の間は「書置きのみ」との案内。境内社の「厳島神社」の御朱印もありました。
▼神社の最寄駅は都電荒川線「宮ノ前駅」。駅の真ん前が神社です。
▼JR東北本線「尾久駅」からも1km強ほどなので歩ける距離です。 (wiki尾久駅)
しかし「尾久駅」を知っている東京人は少ないのです。
まず荒川区の尾久(オグ)の街がどこにあるかもよくわからず、
おまけに「尾久駅」は「オクえき」と読み、北区になります。
路線名も「東北本線」「宇都宮線」「高崎線」「上野東京ライン」と名称が重なっていて鉄道オタクでないと分からないチンプンカンプンさです。
さらに「尾久駅」の1日の利用客は1万人程度で、都区内のJR駅ではオシリから3番目に乗降客の少ない駅です。
▼江戸時代末期の尾久は、すべて田んぼでした。 (江戸切絵図)
江戸時代以降は尾久も大きく変化して面白い歴史を作ります。
明治期にはレンガ工場などの産業も起こり、現在の「荒川遊園」はレンガ工場の跡地ですが、大正時代の「荒川遊園」は遊園地ではなく、温泉や演芸場のある、今でいう健康ランド、スーパー温泉、大江戸温泉でした。
そうです、ある寺の住職がラジウム温泉を掘り当てたのです。
それから尾久の町は、温泉旅館や料理店が開業し始め、東京郊外の温泉街「尾久温泉」として発展しています。
温泉街とともに花街としても発展し、やがて料理屋・待合茶屋・置屋ができ三業地となりました。
尾久は一大遊興地だったのです。
▼その遊興地の待合で1936年、この事件が起きています。
その題材は1936年(昭和11年)の「2.26事件」の約3ヶ月後に起きた
「阿部定事件」でした。
「愛のコリーダ」以降も同じ題材で「SADA」という映画が作られていて、いくつもの映画、ドラマ、小説になり、
古い事件にも関わらず、その猟奇性からか今も人々が強く興味を惹かれる事件です。
▼しかし現在の尾久は、工場、温泉、三業地などの全ての痕跡を消しています。
▼おそらく、この辺りに阿部定事件が起きた待合「満佐喜」があったようです。
もうそんな時代の迷宮は、東京女子医大通り「宮前商店会」として、何の変哲も無い下町の商店街になっています。
そして23区内でも自転車泥棒の最も少ない治安の良い街に変わっています。
▼尾久駅から密集する住宅街と商店街を抜けると都電の走る広い通りに出ます。
さまざまな外観を持つ車両が運行される荒川線ですが、
撮影時の車両は血のような「阿部定カラー」でした。
▼都電が通る神社前の通りは「王子千住夢の島線」という訳の分からない名称です。
都電「宮の前」のホームから神社の全貌が見られます。
▼ここまで今回記事は多くの文字数を費やしてきましたが、やっと神社に辿り着きました。
▼創建不詳の八幡神社ですが、少なくとも鎌倉時代から南北朝時代には早や社殿があったそうです。
「阿部定」が事件を起こしたラブホから200mもない場所に鎮座する神社ですが、
彼女はこの神社には足も運ばず、石田吉蔵との肉欲に溺れていたのでしょう。
身を清める事も知らず、ひたすら独占欲のままに汚れ道を邁進した阿部定ですが、
逃亡の末、殺人罪で逮捕され、その後の判決は懲役6年。
あまりにも軽すぎる刑ですが、当時は単なる痴情のもつれからの事件として、なんとも寛容な判決になったようです。
▼そんな歴史も、ほんの一時の出来事として見つめてきた神社でしょう。
▼日々は遠くに過ぎ去り「ウッンッ! ワシらでさえ、阿部定などは許さんぞ!」
▼「マァ、まぁ、いろんな人がいるから・・。
だからアンタも自分の子供をを抑えているんでしょう!?
痴話喧嘩ではないですが、彼らの内輪揉めが聞こえます。
▼応神天皇を主祭神とする八幡宮の創建は不詳ですが鎌倉時代と推測されています。
▼社殿は1955年の再建。
▼本殿はイチョウの木が邪魔して全容がわかりません。
▼社殿左手には「神輿庫」と「厳島神社」が建ちます。
▼手水社の水盤も狛犬も長い時間を経てきた様子が窺えます。
▼レトロな電車に揺られ「都電神社めぐり」の4社を訪問するのは、鉄道オタクでなくとも、楽しい1日になる事は間違いないでしょう。
「都電神社めぐり」の4社は、ここの尾久八幡のほかに
飛鳥山停留所の「七社神社」、大塚駅前停留所の「大塚天祖神社」、
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