▼那古野神社の御朱印です。(愛知県名古屋市中区丸の内2-3-17)
ご多忙な様子の中、揮毫いただきまました。
それにしても他にあまり例を見ない紙面いっぱいのダイナミックな墨書きです。
▼読み取れない神社印が気になりましたので、墨を飛ばして、予想で朱色を加えて見ました。
印鑑によく使用れる篆書体(てんしょたい)でしょうが、
右側の那古野の3文字は、組み合わせも面白いのですが、
「古」は何とか読めても、ほか2文字は読み取れません。
那古野神社と同じ敷地内に鎮座する
日付が一つなので見開き扱いという事でしょう。
--------------------------------------------------------------------------------------
▼那古野神社、名古屋東照宮は北に名古屋城を控えた丸の内のオフィス街に鎮座。
▼名古屋は空も広く・・・
▼道路も広い。車ですと走りやすい街のように思います。
東京も昔から比べれば渋滞も減ってかなり走りやすい道路が多くなりましたが、
東京・名古屋・大阪を比較すると名古屋が一番走りやすいように思います。
道路の幅と車の量の関係でしょうか?
何しろ名古屋には通称「100m道路」という、出来た頃に騒がれた通りが2本もあります。
といってもだいたい片側3〜4車線で、中央分離帯が広い公園などになっています。
道路の両サイドに植栽を設け、その外側に駐車スペースもあるもう1車線がつくられている通りもあります。
東京ですと2車線道路の左車線を走っていると
▼車線内に突然コインパーキングの白線が敷かれていることがあります。
車が駐車していなければ問題ありませんが、駐っている場合は、軽でも無理でバイクしか通れません。
どういう規則と根拠でコインパーキングが設置されるのか、全く頭を傾げ、腹たつ通りが東京にはたくさんあります。
名古屋の街を走り慣れてるドライバーが、そんな東京の道路を走ったら戸惑うことは多いでしょう。
いつも通り、神社や御朱印とは無関係な文章が長くなりました。
道路や車線の話という脱線でした。
▼「江戸名所図会」は知っていましたが、
同じように名古屋には「尾張名所図会」がありました。
江戸時代末期から明治にかけて制作された案内書です。
当時は「亀尾天王社」と呼ばれていた那古野神社です。
家康が築城した名古屋城の総鎮守、城下町の氏神とされていました。
創建後1100年の神社の歴史は、繰り返された社殿の焼失や遷座など、波乱に満ちています。
江戸時代以降の名称も、三之丸天王社・亀尾天王社➡︎須佐之男神社➡︎那古野神社と改称されています。
大きな神社は明治に入ってから改称させられている神社が多く見られます。
佐賀県に名護屋の名称がありますが、ここは名古屋市の那古野神社で、
やはり「なごやじんじゃ」と呼ぶのが正解のようです。
同じ市内の中村区と北区にある「那古野」は「なごの」と呼ぶそうです。
どうでもよい話ですが「なごや」もいろいろです。
那古野神社のすぐ北に「愛知県護国神社」がありますが、
▼名古屋東照宮は西隣に隣接し、同じ敷地内と言って良いでしょう。
1619年の建立と言われていますので、家康の死の3年後になります。
「三の丸 御宮の図」として掲載されています。
那古野神社、東照宮ともかつては広大な境内だったことが見て取れます。
両社の写真が全くないので、無関係な文と「尾張名所図会」をお借りする記事となりました。
この両社も愛知県護国神社も含めて、ぜひとも再訪したい神社です。