医王山 最勝院 武蔵国分寺の御朱印
「むさしこくぶんじ」真言宗豊山派(東京都国分寺市西元町1-13-16)
2017年の訪問時にはいただけませんでしたが、3年後、期待はしませんでしたが再訪。
気持ちよく対応のうえ、いただくことができました。
▼武蔵国分寺へはJR中央線「西国分寺駅」から1kmほどです。
「国分寺駅」は西武線も乗り入れていますが、「西国分寺駅」とともにその名称は、もちろん「武蔵国分寺」が建っていた地だからです。
面白いことに新宿からの中央線は「高円寺」「吉祥寺」「国分寺」「西国分寺」と「寺」の文字が使用されている駅が立て続けに現れます。
もっとも「吉祥寺」駅だけは地域に同名の寺はありませんが・・。
▼国分寺建立当時の寺ではなく継承されている武蔵国分寺ですが、現実の寺がある「国分寺」です。
▼「楼門」は明治期に東久留米市の米津寺から移築されたものだそうです。
▼楼門の先の正面に寺の入口が見えます。
国分寺は1333年、鎌倉幕府側と新田義貞軍の「分倍河原の戦い」で焼失されています。
▼「本堂」は1725年 享保年間に再建され、さらに1985年に改築されたものだそうです。
▼精緻な装飾彫刻が向拝に施されています。
▼境内はこの地域ならではの恵まれた水も流れ、ヒーリング空間が創られています。
寺のHPからの引用です。
植物は、先代住職 星野亮勝が昭和25年から38年までの13年間をかけ独力で採集したもので、現在では163種が8000平方メートルの園内に植えられている。
▼その植物は万葉集に詠まれている歌に登場する草木で、一つ一つに植物名と万葉集の歌が紹介されていました。
▼「Goshuin」の文字を見つけて、安心してピンポ〜ンできました。
▼寺の本尊は薬師如来ですので「当病平癒」のお守りも案内されています。
▼本堂の西に回り込むと「薬師堂」に続く石段がありますので、登ります。
どの寺社を訪問しても石段を見つけたら登らざるを得ません!
目に見えない、その先に何が広がっているのか確かめなければ気が済みません!
▼石段途中の「仁王門」は1751〜1963年に建立されたもだそうです。
仁王門の中の仁王像は格子に囲まれて撮影できません。
▼石段の登り始めには何の案内もありませんが、仁王門をくぐるとガイドがありました。
▼さらに石段は続きます。
▼「分倍河原の戦い」で焼失された国分寺ですが、鎌倉幕府滅亡後の1335年(建武2年)に焼失させた張本人でもある新田義貞により寄進されたと伝わる「薬師堂」です。
しかし現在の薬師堂は、その後に再建された仁王門と同じ年代のものです。
▼普段は未公開の薬師堂本尊の薬師如来像は毎年10月10日の開帳されるそうです。
「薬師堂」のある高台は訪れる人も少なく、とても静かな時間が流れ、1000年の時間差が圧縮されている空間でした。
▼寺の前から細く流れる清流沿いに遊歩道が東に延びています。「お鷹の道」です。
▼江戸時代末期に建築された名主の家「旧本多家住宅長屋門」は「武蔵国分寺資料館」の入館受付になっていました。
いつものように時間は多くないので資料館見学はまたの機会にします。
▼道沿いに見える旧国分寺「七重の塔」は、10分の1のスケールのの復元模型。
▼ほたるなんて、しばらく目にしていません。
「ほたる」の文字を見て「螢雪時代」を連想させられました。
もうとっくに廃刊になっているものと思っていましたが、どっこい現役で刊行中とか。
🎵ほた〜るのひか〜り まどのゆ〜き
巷では LED の光が眩いばかりに溢れています。
ほたるや雪は、とっくにお役御免となっていますが、「螢雪時代」や世界中で奏でられる楽曲「蛍の光」は不滅かもしれません。
▼「お鷹の道」の名称は、江戸時代のこの地域が尾張徳川家の「御鷹場」に指定されていたことから呼ばれるようになったそうです。
いわゆる「鷹狩り」の場所であったのでしょう。
▼近辺で採れたものでしょうか? 野菜を売る店が1軒現れました。
▼お値段は安いような、高いような! 地方へ行くと産直で度々買うのですが・・。
それにしても「赤かぶ」の色が目を引きます。
▼赤い色ではこちらも負けていません。弁財天社がありました。
その崖線の斜面にも稲荷社の祠が見えました。
またこの崖線があるからでしょうが、湧水が崖下のあちらこちらで見られます。
▼ここは全国名水百選に指定され「お鷹の道・真姿の池湧水群」と名付けられています。
鏡面のような池を眺めていると時間を忘れそうですが、まだ先があるので急ぎます。
▼現在の武蔵国分寺の南に広がる「武蔵国分寺跡」を歩いて見ます。
東西1.5km、南北1kmという国分寺跡は、とにかく広すぎて何が何だか、自分がどこに立っているのか、全く分かりません。
▼武蔵国分寺のHP からお借りしたイメージ図です。これなら理解できます。
8世紀半ば頃の建立と推定される当時はこんな様子だったそうで、天平の時代が垣間見える壮大さです。
▼丁寧なガイド板がいくつも設置されています。
8世紀中頃の奈良時代は疫病、飢饉や干害、大地震などで人々は苦しみ、さらに反乱などで政治的にも混乱を極めていました。
第45代の聖武天皇は741年に、仏教の力で人々の苦しみを解放させ、国を安定させようとし、諸国に国分寺を建立するよう命じました。なかでも武蔵国分寺は規模の大きなものでした。
総国分寺である「東大寺」が建立されたのも同じ目的と時期です。
とりわけ、当時は天然痘という名称さえ特定できなかった疫病は、西日本から畿内にかけて大流行し猛威をふるったそうです。
政権担当者や多くの貴族が相次いで死亡し、朝廷の政治は大混乱に陥ったそうです。
現代では、唯一人類が根絶に成功した感染症の「天然痘」ですが、医療という言葉などなかった時代、薬師如来を本尊とする国分寺を建て、祈りを持って治めようとする天皇の気持ちも分かるような気がします。
翻って国分寺建立から約1300年後、2020年春の世界は同じように人々はコロナという疫病に苦しめられています。
それにより、これまで繋がっていた地球上の国々の手と手が離れようとしています。
手だけならまだしも、心と心も離れさせようとしている令和の疫病です。
科学の力で感染症と戦ってきた現代の人類ですが、新型のウイルスの発生ごとに多くの犠牲者を出すのは避けられないようです。
2020年の厄災は感染症による死者だけにとどまらず、自由と民主主義が脅かされ、国際秩序をも乱し、国同士の大きな争いに繋がる危険要素も含んでいます。
令和の人々の願いは、
そんな世界に向かわず「ウイズ コロナ」の中でも、世界中の人々が手と心を一つにして新たな光を一緒に見出していくことです。
1300年の隔たりはあっても、天平と令和の人類の祈りに大きな違いはないかもしれません。
▼各地の国分寺記事。