▼新小岩香取神社の御朱印です。(東京都江戸川区中央4-5-23)正式名称は「香取神社」でしょうが、
旧称では「間々井神社(ままいじんじゃ)」「間々井宮」、「間々井香取神社」などと呼ばれていたそうです。
「間々井(ままい)」は、千葉県市川の真間と関連がありそうです。
中央の印は「氏神之大御璽」。
読みは「うじがみの おおみしるし」で良いのでしょうか?
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▼JR総武線「新小岩駅」から歩くと12〜13分くらいになります。
神社の鎮座地は、いく筋もの川に囲まれている地域です。
西から「荒川」、平行して「中川」、
現在は気持ちの良い親水公園になっている「小松川」、
東に進んで「新中川」、「江戸川」と続いています。
そんな川だらけだった地域ですので、
神社創建当時の江戸時代以前は、広く湿地帯となっていたそうで、地域にはたった16軒の農家しかなかったそうです。
その農家16家族が神社を創立したと伝わります。
その湿地帯にあった、
御朱印にも記されている「武州東葛西料領 道ヶ嶋」という小高い島に、
「下総国一之宮 香取神宮」から「経津主命(ふつぬしのみこと)」が分祀されたそうです。
正確な創建年は分からず、1617年の再建と伝わるそうです。
▼手水舎はカメが水を吹き出しています。
水出しは、ほとんどが龍の役目となっていますが、亀も悪くないですね。
ちなみに拝殿扁額に書かれていた宮司さんの名称は「亀井」さんでした。
▼社殿は、当地の五分一という地に住む宮大工が10年の歳月を経て、1833年に完成させたそうです。
▼宮司「亀井」さんの書による扁額は「間々井宮(ままいのみや)」。
▼「間々井」の説明。下総「国府台間々」との関連です。
江戸時代までの小松川は「真間」と「江戸」を結ぶ水路だったそうです。
そう言えば、市川市「真間」には「真間井」と「亀井院」という寺もありました。
水路で繋がり、井戸や霊水で繋がっていた「真間」と「間々」だったのでしょう。
▼誰もが知っている葉野菜「小松菜」の由来。
江戸野菜は練馬大根をはじめ、亀戸大根、千住ネギ、寺島ナスなど、当時は地域ごとに伝統的に栽培・生産されていた野菜ですが、
その名が全国区になっているのは「コマツナ」だけのように思います。
1719年、徳川吉宗が鷹狩りでの食事に対して、
当時の神主が、すまし汁に青菜を彩りに添えたところ、吉宗はこの青菜を気に入り、
神社鎮座の地名から「小松菜」と命名したと伝わっています。
話は良くできていますが、小松菜と名付けられる前の青菜は何と呼ばれていたのでしょう。
おそらく単に地域の「なっぱ」だったのでしょう。
いずれにしても全国の多くの人々が常に口にする「コマツナ」の名称が、
まさか、東京江戸川区の小松川に由来するとは誰も気にしないはずです。
▼1692年、松尾芭蕉が詠んだ「秋に添うて 行かばや末は 小松川」という句。
深川の庵から小名木川にそって秋景色をたずね、末は小松川まで行こうという意味だそうです。
▼境内右手に境内社が並びます。「鷲神社」は大鳥神社と言われ、「新小岩のおとり様」とも呼ばれていて、11月の鳥の日にはやはり熊手が授与されるそうです。
鳥居には「鷲神社」、社殿には「大鳥神社」の額が掲げられています。
▼社殿内のおかめの面。
どの境内社にも丁寧なガイド版があります。
▼さらに「稲荷神社」「水神社」が続いています。
▼珍しい「鏝塚」も見えます。江戸川区左官同業者の発起による建立。
▼「大雷神」は農耕に欠かせない雨をもたらす雷を敬い、参拝する対象だったのでしょう。
▼境内の奥は吉宗の鷹狩りに小松菜のすまし汁を献上した、時の神主 亀井和泉守の屋敷跡になっています。
別名「小松菜屋敷」と表され、神社の左側に面した道路にその門があるそうですが、確認しそこないました。
▼「弓取神事」と宮司亀井悦造氏の像。
▼2021年3月まで飼われていた神鹿は、役目を終えて天に帰ったそうです。
神鹿の愛称は「ちびた」だったとか。
凛々しい鹿の姿と愛称の「ちびた」の組み合わせはピンときませんが、
「しかた」ないか!
小松菜の名称由来を知ることができ、見所も多く、記憶に残る神社でした。