小御門神社の御朱印
「こみかど じんじゃ」主祭神:贈太政大臣藤原師賢(千葉県成田市名古屋898)
何も知らなくて「しょうごもん」と読んでいました。
しかし、そんなバカな読み方をするのは当ブログだけかもしれません。
右上のスタンプは「奉祀元弘忠烈之臣贈 太政大臣藤原師賢公」。
中央の達筆な墨書きは「文貞公霊廟」。
師賢は後醍醐朝の忠臣・歌人で「花山院師賢」と呼ばれ「文貞公」は諡号。
▼御朱印は授与所でいただきました。
▼常時いただける御朱印と「朔日まいり」の御朱印案内がありました。
▼神社の最寄駅は成田線「滑河駅」ですが、バスかタクシー利用になります。
歩こうという強者は、約1時間近くかければ神社にたどり着くそうです。
▼その滑河駅の近くに朱の大鳥居があります。一之鳥居になるのでしょうか?
朱の鳥居を車で通過して道なりに進むと、間も無くカーブする道の正面に木造の鳥居が見えてきました。
▼ニ之鳥居という事でしょう。
▼旧社格を表している社号標は「近衛文麿書」と刻まれています。
「建武中興十五社」に数えられるという小御門神社の社殿造営は1882年。
近衛の生年は1891年。
ということは、この書はもう少し年月が降ってからのものなのでしょう。
▼車の流れの多い、ごく普通の地方道を離れて鳥居をくぐると空気感が変わります。
8月初旬の苔むした参道は、暑さを忘れてしまいます。
それにしても東京に隣接する千葉・埼玉・神奈川の1都3県に、まだまだ知らない素敵な神社があるのだと思い知らされました。
明治政府による「建武中興十五社」の1社として建立されているので、当然神社の歴史は浅いのですが、すっかり古社としての雰囲気も持っています。
▼都心の神社のように参拝者がひっきりなしに訪問することもない神社でしょうから、こんな静謐な空気感を保てていられるのかもしれません。
▼狛犬たちの表情だけが静寂感を壊そうとしています。
いや、そんな雰囲気を守ろうとしているのでしょう。
▼狛犬の脇に造られた竹製の鳥居は時季になれば茅の輪が設けられるかもしれません。
▼中門を形成する三つ目の鳥居は、拝殿から本殿までを囲む板塀と連結されています。
ここからの瑞垣の中は、禅寺で例えれば「不許葷酒入山門」。
「くんしゅ しんいきにはいるを ゆるさず」なのでしょう。
▼祭神は後醍醐天皇の側近でもあり、歌人でもある「藤原師賢」。
「藤原師賢」は御朱印に筆書きされている「文貞公」であり「花山院 師賢(かざんいん もろかた)」でもあります。
1331年の「元弘の変」により、後醍醐天皇は隠岐へ、師賢は下総国へそれぞれ配流され、師賢はそのまま下総で亡くなっています。
▼拝殿から幣殿と続き、再奥が本殿。本殿はさらに瑞垣で守られています。
伊勢神宮のように、本殿までに二重三重の瑞垣を設ける神社はそんなには多くないように思います。
「別格官幣社」の全てが、このような造りでもないはずです。
ところで「建武中興十五社」とは、
建武の新政に活躍した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする神社だそうです。
ですから関東には、護良親王を祀る神奈川県の「鎌倉宮」しかないようです。
しかし同じく、明治天皇が忠臣顕彰のために1887年創建した、後醍醐天皇に仕えた朝臣「日野俊基」を祀る「葛原岡神社」は「建武中興十五社」に入っていないようです。
浜松市には宗良親王を祀る 「井伊谷宮」がありますが、あとの13社は福井から関西を中心としています。
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画とともに動いて身代わりにもなった「文貞公」は「小御門」となり、1332年にこの地で没しています。
「小御門」は「小帝」と記すとなお分かりやすいでしょう。
後醍醐天皇、北条高時、足利尊氏、新田義貞、楠木正成らがそれぞれの思いの中で生き、死んだ、遠い遠い太平記の時代です。
厄介な時代ですので、理解するのもヤッカイです。
▼「文貞公廣道」
▼「文貞公」が眠る霊廟です。
▼以下「御神木」から「水神社」点描です。
▼神社に隣接する民家らしき建物も正しき由緒があるのか、この佇まい。
数少ない「絶対再訪」神社のひとつでした。