▼くがみ山 国上寺の御朱印です。(真言宗豊山派/新潟県燕市国上1407)
寺名は音読みで「こくじょうじ」です。
右上の印は「越後一の寺 上杉謙信公 御祈願所」となっています。
「越後一の寺」は弥彦神社の「越後一の宮」に対して「一の寺」だそうです。
国上寺は「越後三十三観音」「越後新四国八十八ヶ所」「弘法大師二十一ヶ所」など複数の霊場札所となっていますので、それぞれの御朱印や「五合庵」の御朱印もいただけるようです。
▼さらに現在では【国上寺HP】には「特別御朱印」の案内もあります。
⑩の番号がついているので、10種類の御朱印があるようです。
このほか限定御朱印などもあり、
御朱印については当ブログが訪問した2015年当時とは隔世の感があります。
国上寺は、上杉謙信や良寛、酒呑童子、源義経、武蔵坊弁慶などとゆかりがあり、それらをイケメンイラスト化したのが「特別御朱印」のようです。
▼越後最古の古刹「国上寺」は「弥彦神社」の別当寺だったので弥彦山のすぐ南に位置します。
境内は広く本堂のほか、六角堂、大師堂、一切経堂などの重厚な建物が国上山全体に建ち広がっているようなイメージです。
▼こちらは「方丈講堂」。1737年の建立です。
千手観音菩薩が祀られていて、上杉謙信も信心したと伝わり、越後三十三観音霊場の札所でもあります。
▼「本堂」です。本尊は阿弥陀如来で「阿弥陀堂」とも呼ばれます。
▼2015年訪問時の本堂は古色蒼然とした味のある姿をしていましたが・・・
▼この本堂が2019年には壁面がこのようになったそうです。以下写真2点は【Sekirara】。
「イケメン官能絵巻」と称して、イケメン仏画アーティストによる作だそうです。
国上寺ゆかりの上杉謙信や良寛、酒呑童子、源義経、武蔵坊弁慶などをイケメン化したイラストのようです。
これらの人物は特別御朱印と連動しているのでしょう。
燕市の文化財に指定されていることから、本堂の壁面画については賛否両論、喧々諤々の物議をかもしたそうです。
もちろん住職による若者目線への媚びと取ることもできますが、寺が将来生き残るための選択だったようでもあります。
住職の目論見が功を奏するか否か分かりませんが、目くじらを立てるほどでもなく、いろんな考えがあって良いのでしょう。
それにしても個人的にはギョーテンの違和感を覚えます。
良寛が生きていたらどのような反応を示すか、興味深いところです。
▼そう言えば京都、大徳寺 真珠庵の襖絵を思い出しました。写真は【そうだ京都、行こう。】
真珠庵ゆかりの一休だったら、喜んでいるに違いありません。
こんな壁画や襖画も、現代の人々が見る評価と、50年後、100年後に目にする人々との評価は異なることでしょう。
その頃まで、さらに先までそれぞれの寺と、それぞれの絵が残されていることを願うばかりです。
幸か不幸か2015年の国上寺では「イケメン官能絵巻」は目にすることができませんでした。
▼「大師堂」は「御影堂」と呼ばれています。
▼「六角堂」に祀られている「大黒天像」は義経の持仏だったと伝わります。
兄の頼朝に追われる義経は、弁慶らと共にここからさらに奥州、藤原秀衡を頼って落ちのびて行ったと伝わります。
▼生涯、自らの寺を持たなかった「良寛」は、1796年頃からの20年間をここ国上寺で過ごしたそうです。
▼48歳から61歳までの住処が「五合庵」でした。
永く漂泊の旅をしていた良寛がやっと安住の地を得た国上山「五合庵」です。
▼大正時代に建立された句碑は良寛が詠んだ「堂久保登盤 閑勢閑毛天久留 於知者可難」。
「焚くほどは 風がもてくる 落ち葉かな」と読むそうです。
良寛の質素な暮らし、それでいて満ち足りている心情でしょうか?
▼良寛は歌人、書家としても有名でが、子どもたちと遊ぶ姿もよく知られています。
子供達にとっても親しみ深い人柄だったのでしょう。
▼生まれ故郷の出雲崎には良寛の子供時代の像も建っていました。
▼雨に濡れて少し悲しげな表情の良寛です。
▼国上山の中腹の「千眼堂吊り橋」は「新潟の橋50選」とか 。
展望台と五合庵を結ぶ長さ124mの赤い吊り橋の下は「千眼堂谷」。
1300年の時間を越後の山々とともに歩んできた古刹も少しずつ変化、進化していくのでしょう。
その朧げな未来の姿は、吊橋の先に見えるかもしれません。
▼弥彦山の麓にある「西生寺」の記事。