桐生天満宮の御朱印
鎮座地の町名も「天神町」となっています。
「関東五大天神」は、サラッと受け止めておくことにします。
名乗る側にはそれなりの根拠があるでしょうし、
どのように名乗ろうと、それを統括・整理したり、規制したりする機関などはないように思いますので・・・。
▼天満宮は両毛線「桐生駅」の北東2km近い距離に鎮座します。
桐生市が山に食い込むような谷に部分に神社はあります。
関東の近郊都市、特に北、東は人口減少が顕著な地域です。
桐生市もかつての人口は13万人以上だったところ、2021年の推計では10万人をやっと維持できている状況のようです。
【wiki 桐生天満宮】からの引用です。
社伝では景行天皇の時代(71年 – 130年)に天穂日命を祀る神社として創建されたと伝えられ、当初は礒部明神といった。南北朝時代初期に桐生綱元(桐生氏の祖)が現在の所在地に移し、菅原道真を合祀して天満宮となった。江戸時代には徳川家の祈願所となっていた。現在の社殿は1789年に建造されたものである。
創建時代の「景行天皇」は「ヤマトタケルノミコト」の父ですので、
完全に神話の世界の話と時間です。
創建不詳というのが正しいかもしれませんが、それほどの古社であると言うことでしょう。
▼現在の社殿は1789年の建立で、県指定の重文です。
人口減少を反映してるわけではないでしょうが、
参拝したのは旧盆の入りである8月13日でしたが、「関東五大天神」の一社は、他の参拝者とは1組も出会わず、全く静かな夏の境内でした。
▼拝殿手前の扁額は「天満宮」でしたが、その奥に掲げられた額は「相生●」と呼んでしまいましたが、ここは桐生だから「桐生●」。
情けないことに「●」が読めません。
(写真【photoAC】)
桐生は古くから絹織物を産する機業都市。
桐生織は京都・西陣の西陣織と並び称され、市内に多くの産業遺産があるそうです。
wikiに
1600年の関ケ原合戦には、軍旗に用いる旗絹を当宮の御神前に供えて戦勝祈願し、その勝利凱旋を吉例として境内には織物市が開設され、後の桐生織物繁栄の礎となった。
とか。
歴史を持つ地域には、当たり前に同じ時間を刻んできた寺社があります。
人口減に陥ってる群馬・栃木の近郊都市は歴史の宝庫であり、
そこに点在する寺社は御朱印の宝庫とも言えるかもしれません。
▼そして古い建物を利用したような、こんなおしゃれな店舗もある桐生の街並みです。