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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

景徳院の御朱印(山梨・甲州市)〜戦国最強軍団 武田家終焉の地慕情

天童山 景徳院御朱印

けいとくいん曹洞宗山梨県甲州市大和町田野)

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上部の2つのスタンプは、武田の家紋で「四つ割菱」と「花菱」と呼ぶそうです。

信玄は「花菱」を好んで使用していたとも言われています。

 

もう1つのスタンプ「甲斐百八霊場」というのは

1980年に「テレビ山梨」が開局10周年の記念に、県内の寺を選定した霊場だそうですが、現在は霊場として108全ての寺で御朱印がいただけるのかは不明です。

 

東京から景徳院へ行くのに信号待ちの多い都内は高速利用で、八王子からはエッチラオッチラ下道を行くのはボンビーの常。

八王子からでも約70kmほどあるので混雑していると2時間以上かかることもあります。運が良くても1時間40分ほど。まぁ時間はたっぷりあるから・・。

 

国道20号の笹子トンネルです。

f:id:wave0131:20190624183319j:plain2012年に不幸で恐ろしい崩落事故が起こったトンネルはこのトンネルではなく、高速の中央道です。

しかし、この国道20号のトンネルもかなり古いもので、開通から60年ほどになるそうです。中央道のトンネルに比べると狭くて暗く、延々3kmほど続きます。

 

慣れている車でも運転を緊張させられるトンネルの先に出口の明かりが見えてくるとホッとします。

▼トンネルを抜けると右側に道の駅「甲斐大和」が突如現れる感じで見えます。

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ここから右方面の景徳院へは距離も時間もわずかで到着します。

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▼景徳院は武田一族の菩提を弔うために家康が建てたと伝わります。

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何度も火災になり当時の建物は残っていないそうですが、山門だけは江戸時代の建立だそうです。

 

▼山門の仁王像はフラッシュのせいか金色に輝いているように見えます。

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各地の仁王像にも様々な表情があります。

 

▼これは秩父永福寺童子堂のひょうきんな像ですが、参拝者をユーモラスに迎えてくれますが、寺を守る存在としては少し心もとないかもしれません。

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▼景徳院は寺の性格上にも、まさに勝頼をはじめとする、この地で果てた者たちの霊を守らんとする厳しい形相が相応しいようです。

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▼朝早く訪れた11月の境内はひっそりとしています。

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▼本堂も新し目で唯一白壁だけが、かろうじて禅寺らしい雰囲気を保っています。

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▼本尊は釈迦如来ですが、そのお姿は確認できません。

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▼この時期、境内の木々は赤黄緑と賑やか。

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▼勝頼の正室の辞世。この地で自害したと伝わる夫人は、なんとまだ19歳だったとか。

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▼勝頼、夫人、子 信勝の墓。後に建てられたものなので墓というより供養塔が正しいかもしれません。f:id:wave0131:20190624142609j:plain寺、墓、いずれも3百年、4百年前に建立された話。正確なことは定かではありません。

▼3人の辞世ですが、いつ詠んだものなのでしょう?

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辞世ですので、この世とお別れの時のものです。

しかし、織田・徳川の連合軍に追われ、もはやお供も含め総勢50人ほど前後になっていたこの山奥で、疲労と飢えを抱え、辞世などを詠んでいる余裕があったのでしょうか。

当時の武将、そしてその肉親たちの精神構造は計り知れません。最後にしっかり辞世を詠み、武田家の遺臣たちが後の時代に伝えたものかもしれません。

 

▼勝頼37歳、同夫人19歳、信勝16歳の年齢を読むと、悲運な若き親子三人の最期の姿が朧げながら眼に浮かぶようです。

f:id:wave0131:20190624142616j:plain1575年の長篠の戦いから7年、戦国時代には最強軍団として恐れられた武田氏も1582年に、その長い歴史を閉じます。

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甲府にある多くの寺社はなんらかの形で武田家、とりわけ信玄との繋がりが数多く言い伝えられていますが、信玄には及ばなかったものの、名将だったとも言われる勝頼を伝える寺は少なく、終焉の地のみにその名が刻まれているようです。

 

一般的には否定的評価の勝頼ですが、信玄同様 勝頼も山梨、甲府の人々、とりわけ大和村の人々には慕わしく、誇りに思われているようです。

 


wave2017.hatenablog.com

 

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