大鈩山 誓願寺の御朱印
書置きをいただけたのだが、中央の墨書きが読めない。
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東海道五十三次、20番目の宿が丸子。鞠子とも書くらしい。
鞠子が正しく、丸子とも呼ぶ、というのが正しいのかもしれない。
▼広重とgoogleが共通の表現とする「丸子」がグンバイとしましょう。
しかし、小さな宿場だ。
▼旧道を車で流すと、右に左に、案内所、本陣、広重が描いた、とろろ汁屋もアッと言う間に過ぎ去ってしまうわね。
宿場町として残っている、あるいは再現、整備された町を車で侵入するのが間違っている。基本は歩きでしか得るものはないはずだ。車を置いて、歩け!
まぁ、しかし時間がない。街道歩きに時間の多くを割く予定を立てていない。
雰囲気だけでも!と期待しても車では、まったくダメだった。
旧道沿いにちょっとした駐車場でもあれば止めようと視線を左右にウロウロさせるが、見つからないうちに宿場を過ぎてしまった。
旧道歩き、街道歩きが好きではあっても、悲しいかな、御朱印収集人はその周りの寺社訪問を優先することになる。
▼少ない時間の中、優先したのが丸子宿のはずれにある、この寺。
誓願寺は鎌倉時代初期、頼朝の創建、信玄が再建と伝えられている。
さらに豊臣家滅亡へと続く歴史の中にも関わってくる寺。
「国家安康」「君臣豊楽」
いわゆる「方広寺鐘銘事件」と言われる、家康の 陰謀によって豊臣側が振り回され、大阪冬の陣につながっていった。
事件の渦中、家康の誤解を解くための使者、片桐且元がここ誓願寺に滞在したという。
そんな歴史ある寺だが、写真を見た通り訪問者とは出会わなかった。
ガラガラだわね。人がいない。
駐車場も境内も広いだけに、余計にヒッソリ感が増す。
観光寺でもないが、そこそこ有名な寺でも地方はいつも、こんな感じだ。
あれあれ、一組くらいいてくれない? 同好の趣味の方々?
▼御朱印のスタンプにもあるように、片桐且元の墓所が本堂裏手にある。
且元の子供が建立されたと伝わっているが、もちろん、ここにも人の気配はなく、供花も、すっかり枯れきっていて、取り除かれてもいない。
ヒッソリ感と淋しげな様子が更に増すが、枯れてても花が供えられていたから忘れられていた訳ではなさそうだ。
昨年はNHK大河ドラマで登場人物となっていたから、この寺と墓を訪れる人も多かったかも知れない。
様々な人物評価のある「かつもと」、歴史上の人物の正確な人物像や人間性を捉えることは難しい。
一般的には今は「かつもと」より声が、ぎゃぁーぎゃぁーとウルサイ、TVタレントの「かつまた」の方が、きっと多くの人に名が知られている事が悲しいわね。
でも、人が永遠に眠るのには、時々人が訪れてくれるだけという、このくらいの静けさの中の方が安眠できるかも知れない。
特に戦国時代の武将は誰しも忙しく、いつ寝首をかかれるかもしれないから、夜もおちおち眠っていられなかっただろうからねぇ!
かつまた君、じゃなかった、かつもと君、ぐっすりお休みなさいな!