▼正式名称 銭洗弁財天宇賀福神社の御朱印です。
(神奈川県鎌倉市佐助2-25-16)
▼銭洗弁財天宇賀福神社の御朱印(2013年)。
右下の添え書きが「古都かまくら」から「かまくら隠れ里」に変化していました。
でも、いつも参拝者があふれていて「隠れ里」のイメージはありません。
鎌倉駅から徒歩20分という距離で言えば「隠れ里」かもしれません。
コロナ禍でもこの人出です。
普段から週末や休日はいつもこれ以上の参拝者でごった返しているので、御朱印対応などに丁寧さや親切さは期待できません。
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▼10台くらい駐められる駐車場もありますが、土日休日は閉鎖されているようです。
▼源氏山公園、葛原岡神社から銭洗弁天に降りました。
▼多くの参拝者は鎌倉駅方面から20分ほど歩くことになりますが、ダラダラとしたこんな坂道を登るハメになりますので、真夏は汗が噴き出します。
本ブログは「化粧坂切り通し」経由で一気に高度を上げたので、あとは楽な下りです。
「金運招福」の神社は他でも数多くありますが、
「銭洗弁天」というのは関西など他の地域には見当たりません。
主に関東にある神社の境内社として存在しています。
したがって関東の人間が「銭洗弁天」というと、ここ鎌倉の宇賀福神社を指していますので「銭洗弁天」の親玉的存在ということになります。
「銭洗弁財天」は元々は現在も鎮座する扇ケ谷の「八坂大神」の末社でした。
そして1970年に独立して、現在の神社名になっていますので比較的新しい神社です。
元本社の「八坂大神」は知らなくとも「銭洗弁天」は誰もが知る存在となり、
本社と末社の知名度は大逆転、正に「本末転倒」ですが、意味は違います。
いずれにしても「金運」「財運」アップのご利益というPRは、恐ろしいほど人々を魅了させ、参拝者をとめどなく集めることになっています。
そして参拝者を集める力としては鎌倉の寺社のベスト3に入るかもしれません。
神社は崖に囲まれているので、入口はトンネルが掘られています。奈落の底へ続くような下り坂の隧道です。
やがてお金が輝くような光が見えてきます。
このトンネルは第2次大戦前後に設けられたようです。
▼トンネルを抜けた右手の「手水舎」は使用不可です。
▼稲荷神社のように木製の鳥居が境内まで連続しています。
▼視界が開けたその先は人・人・人・・・ですが、今回の密集度はまだ優しい方です。
ビフォアコロナの休日は境内に立錐の余地が無いほど混み合っていて、思わず引き返しています。
▼トンネルが出来る前の当初の参道方面に回ってみます。
▼佐助稲荷方面に続くこの細い道が元々の参道だったようです。「隠れ里」の言葉通りの雰囲気です。
▼当然こちらにも鳥居が連なっていますが、こちらは鳥居を抜けると市杵島姫命を祭神とする「本社」の正面になります。
▼本社にお参りするには忍耐が必要です。
▼神仏習合の名残りで、ろうそくと線香も供えます。
▼「本社」の左手に宇賀神を祀る「奥宮」となる社が鎮座する岩窟内です。
源頼朝が巳年である1185年、巳の月、巳の日、巳の刻に夢告をうけ、ここに湧く霊水を見つけ、社を建て「宇賀神」を祀ったのが神社の起こりと伝えられています。
「巳年、巳の月、巳の日、巳の刻」という、良く出来すぎた話です。
その後の1257年、5代執権北条時頼がここの霊水で銭を洗って一族の繁栄を祈願したのが銭洗の始まりとされています。
ですから、いただいた御朱印にも北条家の家紋「三つ鱗」が押されています。
800年間、人々の欲望を受け止め、銭を洗い続けてきた霊水は、これまで一体いくらの金額になるのでしょう?
もしかしたら霊水は、高度経済成長期からバブル期までの、日本経済の飛躍的成長の一翼を担ってきたかもしれません。
尽きる事を知らずコンコンと湧き出る人々の欲望に対して、霊水も尽きてる訳にはいかず、今日もコンコンと湧き出し銭洗いです。
▼「奥宮」手前には、小さな弁財天像と宇賀神さんらしき姿も見えます。
岩をくり抜いていますので、霊水窟は一種独特な神秘的雰囲気を持っています。
身の程をわきまえ、本ブログは不浄な心だけ洗うにとどめます。
▼こちらは紛うことなき「宇賀神」。
▼本社裏手の石段を登ると「上之水神宮」。
▼石段を降りて池の先に「下之水神宮」。
▼水の豊富な鎌倉らしい「一条の滝」です。
この一角はとても雰囲気の良い風景を見せていて人々がベンチで憩っています。
▼「七福神社」。
▼ここも神仏習合の名残りのようです。
ザブザブ洗って濡れた心も乾いてきました。
ゼニもココロも洗える神社を出ます。