▼葛原岡神社の御朱印です(2016年)。
▼2021.05現在は「恵比寿神」「大黒神」の御朱印もいただけます。
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▼「葛原岡神社」は標高90m以上ある「源氏山」の一角に鎮座します。
JR「北鎌倉駅」からのハイキングコース、「鎌倉駅」から「銭洗い弁財天」経由などルートは色々ありますが、いずれも徒歩30分前後かかります。
葛原岡神社には数台駐められる駐車場もありますが、途中の道幅は狭く、急坂もあったりで、運転に自信のある方、または勇気のある方でないと無理でしょう。
▼本ブログは「海蔵寺」方面から険しい坂の「化粧坂」を這い上がってきました。
このルートは一般的ではありませんが、平坦地から一気に源氏山にたどり着けます。
若々しい顔の頼朝が小さな公園から鎌倉の街を見下ろしています。
桜の名所でもある「源氏山」は源頼義・義家父子が奥州遠征の際に、
この山に白旗を立てて戦勝祈願をしたとも、代々源氏の屋敷があったことに由来するとも言われています。
▼「佐助稲荷」や「銭洗弁天」方面からの訪問者は、標高差50mのダラダラと長い坂や石段を相手にすることになります。
▼葛原岡神社への参道途中、鳥居の少し手前左にある「国指定史跡 日野俊基墓入口」の石柱。
葛原岡神社に参拝に向かう多くの人が行き交いますが、ここへ立ち寄る人は僅かです。
鎌倉時代後期の公家であり、後醍醐天皇の秘書的役割を担っていた
「日野俊基(ひのとしもと)」は葛原岡神社の祭神です。
日野俊基は荒廃した鎌倉幕府を倒すため、後醍醐天皇を中心としたクーデターを計画し、楠木正成を説得するなど幕府打倒の中心人物として奔走しています。
しかし事前に北条側に計画が漏れ、1324年「正中の変」で捕らわれ、その時は許されたものの、1331年の倒幕計画「元弘の変」で再度捕らわれ、翌年ここ葛原岡で斬首されています。
具体的な人物イメージを求めても彼の肖像画は見つかりません。
現実の容姿はどうであれ、人物を語るのにイメージは必要ですので・・。
辞世の詩を「古来の一句 死も無し生も無し 万里雲尽きて 長江水清し」として、
悲劇的な最期となった俊基の潔さと無念さが滲み出ています。
その日野俊基の処刑から1年後の1333年に鎌倉幕府は滅亡しています。
観光地の古都鎌倉は武家政権の創始者頼朝をはじめ、幕府サイドの寺社が多いのは当たり前です。
誰もが知る建長寺や円覚寺、鶴岡八幡宮、ここ源氏山など、ほとんどが鎌倉幕府側から見た歴史を持つ寺社です。
そんな中で鎌倉幕府を打倒した朝廷側、後醍醐天皇側を讃えるのが葛原岡神社です。
鎌倉でもう1社、朝廷側の護良親王を祀るのが「鎌倉宮」です。
さて、葛原岡神社に到着しました。
神社は明治20年、日野俊基の活躍を明治維新の先駆けとして評価された明治天皇の意思により葛原岡に創建されました。
創建から130年余りの神社は、祭神とは直接関係のない思われるものも多く造られています。
▼祭神 日野俊基とは無関係とは言え、この神社に参拝する女性たちの人気を集めている「縁結び石」。
「縁結び」に「恋みくじ」「ハート形絵馬」、日野俊基の名前も知らない女性たちの天下泰平を祭神も苦笑いしてるかもしれません。
▼社殿に向かう参道途中にある「合鎚稲荷神社」は珍しい名称です。
何も知らなくて最初は「合鍵稲荷神社」と読んでしまいました。
「あいかぎ稲荷」ではコソ泥を讃えるような稲荷になってしまいます。
失礼しました。
鎌倉時代の鍛冶職人に由来する、刀を打つ時の「合鎚(あいづち)」だそうです。
「あいかぎ稲荷」と読み間違えましたが、
▼でも眷属の狐は「鍵」を持っています。「合鍵」ではないでしょうが・・。
▼参道一番奥にコンパクトな造りの社殿です。
▼2016年の社殿前は木々が覆いかぶさり、いくらか暗いイメージでしたが・・・
2021年は、かなり明るくなっていました。
コロナ禍とはいえ、大雑把に言えば鎌倉の街、日本はとりあえず平和です。
「ご安心を!」と祈ります。
▼「昇運の神龍」は祭神を120年間護り続けてきたそうです。
▼「俊基御終焉之地」の石碑。
「今は平和となった世の中で、貴方を知らなくても、縁結びを求める人々に幸をお与えください!」
日野俊基の専門分野ではないでしょうが、
そんなことをお願いして葛原岡神社を出ます。