▼扇谷山 海蔵寺「本尊 瑠璃光如来(薬師如来)」の御朱印です。
海蔵寺は他にも「鎌倉十三仏」や「鎌倉二十四地蔵」など複数の霊場札所となっていますので、当然それぞれの御朱印がいただけます。
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▼今回は鶴岡八幡宮脇の「そうびえん」駐車場から歩きました。
「そうびえん」駐車場は、1日1000円と安いので、八幡宮周辺を訪問するには便利な駐車場です。
海蔵寺拝観だけの駐車なら山門前に「檀信徒 拝観者」用の広い無料駐車場があります。
▼八幡宮脇の駐車場からは1.2kmほどで、15分くらいで海蔵寺に到着。
GWの5月4日でもコロナ禍で参拝者はまばらです。
▼数年前の11月は大勢の訪問者で賑わっていました。
▼5月でもモミジは紅葉を保っているのでしょうか? と思いましたが「春モミジ」というのだそうです。
鎌倉は谷だらけです。
谷といっても深い谷ではなく、低山と低山に挟まれた狭隘な平地で、大抵は行き止まりとなっています。
その「谷」の文字がついた地名がいたるところにありますが、
「や」とか「たに」と読まず、すべて「やつ」と呼びます。
ここ海蔵寺は「扇ガ谷」ですので「おうぎがやつ」と読みます。
ほぼ鎌倉だけに見られる呼び名です。
▼同じ文字を使っていますが、海蔵寺の山号の読みは「せんこくざん」です。
「扇谷山」も音読みにしてしまうと情緒はどこかへ飛んで行ってしまいます。
▼海蔵寺に赤い「野点傘」は寺と1セットです。これが無いと海蔵寺らしくありません。
寺の創建は1253年、鎌倉時代の建長5年で、北鎌倉の「建長寺」と同じ創建年になります。
しかし、1333年の鎌倉幕府滅亡と同時に焼失していますので、寺はその後に再興されて現在に至っています。
▼禅宗らしく趣のある「薬師堂」は、江戸時代に北鎌倉の「浄智寺」から移築されたものと伝わります。
▼内部は土間になっていて薬師三尊像と十二神将像が祀られています。
堂内には入ることは出来ず、身近に仏像を見られないのが残念です。
千社札が貼られているので、かつては堂内に入れたのかもしれません。
▼手入れされた裏庭も、少し離れた位置で進入禁止となります。
▼日頃の手入れの大変さが思いやられます。
▼ほぼ「やつ」の行き止まりで、裏庭には山腹の岩肌がむき出しとなります。
▼その岩肌をくりぬいて「やぐら」が築かれています。これも鎌倉地方特有のものです。
「やぐら」は墓と理解していいのでしょうが、
▼こちらは「雨宝殿」と言って鳥居の奥に「宇賀神」が祀られています。
▼山門右手前にある「底脱の井(そこぬけのい)」。
鎌倉時代中期、桶に井戸の水を汲んでも底が抜けてしまうと詠まれた歌に因む井戸。
水が豊富な鎌倉には「鎌倉十井(じっせい)」と呼ばれる井戸があり、その一つに数えられています。
▼さらに寺の左奥に「十六井戸」があります。
▼岩をくりぬいたトンネルを抜けます。
▼井戸の手前にある句碑らしき文字は「十六の井 その名所やを ほろ月」。
▼おどろおどろしい井戸の入口です。
▼撮影日など条件がが変われば一気に明るくなります。
▼中は暗くてよく分かりません。
▼フラッシュを焚くと「4×4」の穴が見えます。
16の穴から水は湧き出ているものの本当は何に使われ、何を意味しているのか不明。
井戸ならば16もの穴は不要で 1 穴で十分なはず。
海蔵寺のミステリーです。
▼海蔵寺から逆戻りして「源氏山」を目指し「化粧坂」切り通しを登ります。
▼観光都市鎌倉ですので道案内は充実しています。
あたかも、ここから「銭洗弁天」や「源氏山」に簡単に行けるような案内です。
間違ってはいませんが、この道案内は一言「険しい坂道」の「注意書き」が必要です。
とにかく進んでみましょう。とは言え本ブログは2度目の「化粧坂」です。
途中ここでも「春モミジ」や、のどかな佇まいの建物が見える道を進みます。
ここで軽装でスカート姿の女子は引き返します。高齢者も引き返します。
少なくとも足元はスニーカー以上でないとキツイです。
▼少し登って振り返ると、この高低差です。
▼ここまで上がってきた坂は谷底に落ちています。
▼眼を上に向ければ、無情にも「これが坂?」と疑いたくなります。
それでも今回の坂はヌカるんでいません。
雨が降った翌日の足元は最悪になります。
ちょっと言葉では脅してきましたが、
実はこの坂は頑張ればスカート、パンプスでも越えられるでしょう、おそらく。
確かに険しい坂道ではありますが、標高差は20mか30mくらいだと思われます。
手を突きながらでも、這いつくばってでも数分間だけ頑張れば抜けられます。
▼坂の頂上間近地点です。手を突きたくなるように這い上がります。
▼振り返れば、やはり難所です。馬や鎧姿の武者は無理でしょう。
鎌倉幕府を滅亡させた、あの新田義貞も、下りなのにこの切り通しは越えられず、ルートを稲村ヶ崎へ迂回しています。
▼「切り通し」の形状がよく分かる下り方面に進んでいく男女は、やはり若者です。
▼険しいながらも、ほんの数分、這い上がった坂の先で待つのは、多分自らは這い上がらなかった源氏山に座る「頼朝」です。
▼源氏山に着いたので、当然、次回記事はこの神社です。