広島に続き長崎に原爆が、そして敗戦記念日、さらに日航ジャンボ墜落事故。8月は鎮魂の夏でもある。
1985.08.12の夜、日航123便、ジャンボジェットが消えた。
TVから速報が流れたのはその30分後。前橋の上毛新聞記者は全員招集された。そしてゲキが飛んだ。
「行ける記者は全員墜落現場を目指せ!」
32年も前の事件だ。本やドラマ、映画にもなったが、人々の記憶は時間とともに薄れていく。
この悲劇で亡くなられた方や残された遺族を思う時、おバカなブログは、こういう社会事件にはアンタッチャブルだ。
しかし、ほんの一部分の側面を捉えただけだが、NHKの番組「アナザーストーリーズ」の内容の記憶を辿って、敢えておバカをさらにさらしてみる。
当時、上毛新聞記者だった横山秀夫もそのニュースを知り墜落現場を目指した。
現場と言っても群馬、長野の県境辺りというだけでまだ特定できていなかった。
情報が錯綜するなか、記者の大半は最も有力視されていた長野側を目指した。そこは警察、消防隊、東京からやって来た報道陣、さらには一般人でごった返していた。
だが現場は判らず右往左往するばかりだったとか。
現場が判明し一般にも知らされたのは夜が明けた翌13日朝5時。
しかし墜落現場は、墜落の20分後位には米軍がいち早く発見していた。
直後、自衛隊の戦闘機も現場を確認、ヘリも現場上空に到達したものの夜間救助の装備が無く、結局救助活動が始まったのは墜落からおよそ14時間後だった。
現場は長野側に集まっていた横山たちから直線距離で10km離れていた。
現場山中へは山が連なり人の歩ける道も無い。
一方、群馬側の上野村に向っていた記者、カメラマンも僅かにいた。
上野村から墜落現場までは直線距離5km。警察・消防の捜索隊が登山道から、さらに道無き道を現場に向かう。
その捜索隊に同行したカメラマンがいた。登山装備も無いまま、泥まみれなって、5時間かかってようやく現場に辿り着く。
そして凄惨な現場から奇跡的な4人の生存者の救出を目の前にして、上毛新聞伊藤カメラマンは夢中でカメラのシャッターを切る。
そのカラー写真が、さらに翌日になる14日、上毛新聞朝刊1面を埋めた。全国紙の中で唯一だった。一大スクープだった。
「質、量ともに他紙を圧倒せよ」
「群馬で起きた事件報道は絶対に負けない」という言葉を持つ、120年以上続いている上毛新聞の面目躍如だった。
後にニューヨークタイムズにも掲載され、アメリカでも話題になった。
当の伊藤カメラマンは定年後も上毛新聞に席(2015年現在)を置いているそうだ。
この事件を題材に様々な本が書かれたが、横山も後年「クライマーズ・ハイ」を書いた。
ドラマになり、映画にもなり、横山秀夫の名が一躍世に出ることになった。
あれから32年、三十三回忌にもあたる今年もまた、遺族や関係者らによる慰霊の御巣鷹山登山が行われた。
合掌。
今回も神社と御朱印は群馬の前橋鎮座ということだけで、事件とは何の関係もありません。すみません!