芋観音の御朱印(富岡山 長昌寺)
「いもかんのん」臨済宗建長寺派(神奈川県横浜市金沢区富岡東3-20-7)
▼芋観音の御朱印です。
「芋観音」というのは通称で正式には「富岡山 長昌寺」です。
右下は宝船に乗ったワンコのスタンプ。
▼「京急富岡駅」、シーサイドライン「鳥浜駅」どちらの駅からも1km前後です。
境内から少し離れた東側には檀信徒用の駐車場があります。
空いていれば、参拝時間の短時間なら問題なく駐められるられます。
▼細い道路のカーブに山門と石段、「横浜金沢七福神」の幟が見えます。
山門周りに寺号標のほか様々なものが建ちます。
▼こちらは明らかにタヌキ。長昌寺のキャラクターでしょうか?
「横浜金沢七福神」の開帳は正月1〜8日までですが、
開帳日以外でもお願いすれば布袋尊の御朱印がいただけるかもしれません。
通称の「芋観音」とは珍しくも、おかしい名称です。
▼「芋観音」の縁起イメージが再現されています。
戦国時代末期、この観音様は人々から病苦を抜き去って下さり、願い事もかなえられ、容貌をも美しくして下さるとも言われていたそうです。
また当時は大変恐れられていた天然痘が流行し、芋観音にお参りをし、池の湧水を頂けばその難を免れ、もしくは軽症ですむとされていたそうです。
▼とてもやさしい顔の観音像です。
そんな由来から「芋観世音」または「芋神様」と呼ばれるようになっています。
池に茂る芋ですので考えられるのは、やはりサトイモでしょう。
毎年3月の「芋観音御開帳」の際には「里芋の煮ころがし」が参詣者にふるまわれるそうです。
疱瘡は「いもがさ」とも読むそうです。
もしかしたら、この「いもがさ」から「いも観音」となった可能性はないのでしょうか?
源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、夏目漱石なども疱瘡により顔にあばたを残したそうです。
さて、長昌寺の創建は1574年。以下、長昌寺公式ページからの由緒抜粋です。
小田原北条氏の家臣で富岡を領した柳下豊後守が亡き妻の菩提を弔うために長昌庵を創建しました。
1593年に柳下豊後守は安房富津岬周辺から来襲した里見水軍と戦い、槍で重傷を負いながらも里見軍を打ち破りましたが戦いによる槍傷により亡くなります。
里見軍は撤退する際に当時の長昌庵の本尊、阿弥陀如来立像を持ち去りましたが、里見軍と村民に不幸が続いたため、阿弥陀如来の祟りとして如来像を返してきたと言われています。
▼絵画的構図を見せている柏槙(ビャクシン)は樹齢700年だそうです。
▼「瑚林慶珊大姉」の墓所。
この墓は「江戸城三大刃傷」にまつわる面白い話があるのですが、
長くなるので「長昌寺公式ページ」をご覧ください。
▼「芋観音」が祀られている観音堂は、本堂の境内続きですが、別に石段も設けられています。
▼その観音堂の脇に「直木三十五墓所」。あの「直木賞」の直木です。
「直木賞」は正式には「直木三十五賞(なおきさんじゅうごしょう)」。
文藝春秋社社長の菊池寛が親友の直木三十五を記念して、1935年に芥川龍之介賞(芥川賞)とともに創設されています。
本名は植村宗一。
その「植」の一文字を「木」と「直」に分解して、逆に並べて「直木」。
「三十五」は本人の年齢で、35歳前までは三十二、三十三と名乗っていたそうです。
文学というより時の大衆小説、時代小説の開拓者だったのでしょう。
大衆向けに分かりやすい表現で歴史小説などを一般層に浸透させ、
作品は、時代劇として50本以上映画化されているそうです。
いわゆる直木賞作家の墓所は、そそれぞれの作家ファンが訪れることでしょうが、
その名称に由来する「直木三十五」の墓所を訪問する人は少ないかもしれません。
破天荒な生き方の生涯を通した直木は、当時の評価は今ひとつだったようですが、
▼菊池寛の先見性により、今やすっかり大地に根をはった「直木賞」でしょう。
いつもこのブログで文字にしていることですが「社寺は歴史の宝庫」です。
ここ長昌寺「芋観音」も、そんな歴史の「おタカラ」がイッパイ詰まっています。