2020年の御朱印を2013年と比べると「奉拝」筆書きが「杉並区遅野井鎮座」に変わっていました。
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▼八幡宮はJR中央線と西武新宿線にサンドされた位置に鎮座します。
神社が鎮座する地は古くは多摩郡「遅野井村」と呼ばれていたそうです。
井草八幡宮も「遅野井八幡宮」と呼ばれていた時期があったそうです。
それにしてもこの周辺地域は井草、遅野井、石神井、井荻、井の頭と並び
「井」だらけです。
と言うことは、とにかく湧き水が豊富だったのでしょう。
かつては典型的な「武蔵野」の雑木林が広がっていたこの地域に懇々と湧き水があふれていた証かもしれません。
車ですと青梅街道を新宿方面から走ってくると、いやが上にも朱塗りの大鳥居に目を惹かれます。
▼しかし神社の駐車場は少し先の交差点「井草八幡前」にあります。
駐車場から進む参道入口の鳥居も大きいのですが、さらに朱色の灯篭は威圧的なまでに巨大です。
東京では珍しいくらいの大きさで、少なくとも23区内では覚えがありません。
▼武蔵野の森の長い参道を進むと重層の楼門が朱色に輝いています。
▼コロナ禍でも手水舎の「井」は渾々と流れ落ち、枯れていません。
▼手水舎の脇に境内社の「祓戸神社」と「三宮神社」が並びます。
▼砂利敷きの広々とした境内を進むと「神門」と回廊が神域を囲んでいます。
▼神門手前の狛犬は少し情けない表情で、親近感がモリモリ湧きます。
ズングリムックリの体型は人間も同様で何故か憎めません。
▼余計な装飾や案内のない、キリッとした表情の拝殿です。
尊厳と潔さ感が伝わってきます。
神社の創建は不詳のようですが、この地は縄文期から人の生活が営まれていて、
境内からは当時の住居跡や土器などが見つかっているそうです。
神社としての形が整ったのは平安時代末期。
八幡宮ですので、
祭神は八幡大神(やはたのおおかみ)=八幡神=八幡大菩薩=誉田別命=応神天皇、
と別名や、同一視される名、神仏習合時の名ありで祭神名はホントややこしい!
「井草」と言う地名は全国的に眺め回してもここだけの名称でしょう。
地名の由来は諸説あって確かなものはなさそうですが、
池の草と呼ばれた葦がたくさん生え茂っていたので、
池の草→葦草→井草となったという説もあります。
社域は1万坪もあるそうですが、境内も広々としている割合には
境内社の少ない神社です。
写真はありませんが「祖霊社」を含めたら境内社は5社だけでした。
あるいは見逃しているかもしれません。
▼「御神水」は蛇口になっていますが、休眠中なのか出ませんでした。
▼大きな木の一部は高さ40mもあったという、源頼朝が植えたと伝わる松の幹でした。
現在は二代目が境内にそびえています。
▼神門回廊左手に社務所があります。御朱印はこちらでいただけます。
▼宝物庫のような建物は「文華殿」。
▼こちらから境内を出て、神社の外周を進んで東にある参道方面に向かってみます。
▼高い木々に囲まれ、流鏑馬も行われる参道は広々としています。まさに武蔵野の森です。
▼文政年間(1818-1831)に富士講の人々により建立された石灯籠。
▼東参道の大鳥居。
グルッと回って北口参道の方へ戻ると、
▼駐車場の奥に「浅間神社」がありました。
井草八幡宮の境外社扱いのようです。
▼小さな社の後方にあるのは富士塚でしょう。雑草に覆われ形がわからなくなっています。
▼神社とは関係がなさそうですが、駐車場から神社脇を進むと小さな祠があります。
案内板に「椿の庚申様」と記されていました。
▼300年以上前に建立された「青面金剛立像」と言うそうです。
古くは多くの地元民に信仰され、椿の大樹に覆われていたことから「椿の庚申様」と呼び親しまれていたそうです。
かつては青梅街道沿いに建っていたものが何度も所を移されて現在の地に建つそうです。
風化で刻まれた文字も判読できませんが、
花が添えられているので大事にされているというか、
300年もの間、信仰が引き継がれていると言うことでしょう。
一口に300年と言いますが、日本の人工物で300年もの間保たれているのは寺社の建物、それに関わる仏像など以外にそんなには多くありません。
この庚申塚も引き継いでいくべき文化の形の一つかもしれません。