▼鷲峰山 法華禅寺の御朱印です。
(臨済宗妙心寺派・長野県諏訪市大字中洲神宮寺)中央の墨文字は本尊「釈迦三尊佛」でしょうねぇ?
上にある左右2つの印は読めない!「霊鷲峰」? 「◯蹟 吉良義周」かしら?
この御朱印をお願いした時、奥様さんらしき女性が、息子さんらしき方の名を呼んだ。
息子らしき僧侶は右手から疾風のように現れ、わたしの朱印帳をサッと受け取って奥に消えた。息子さんが住職か?
しばし、終始笑顔の絶えない奥様らしき女性と雑談。
わたし「本宮の参拝ついでに、時たまやって来る朱印収集人。300円じゃ、やってられないわよねぇ! その都度、自分のしている事が中断される、でも無下にもできないし・・」と問いかける。
女性「ははははっ、そうなのよねぇ! ここだけの話だけど・・。でも有難いことでもありますよ!」というような言葉。
ワンコイン500円を受け取ってもらう。
「あらっあらっ、今お釣りを・・・」
いつものように
「とんでもない、お賽銭がわりに!」
上社本宮に参拝したら、この寺にも寄りましょう。歓待されます、きっと!
--------------------------------------------------------------------------------------
▼上社本宮の二の鳥居の左手にこんな案内板があります。
漢字ばかりで読みたくない! それも「平体4番」のような変形文字で読みにくい!
「平体4番」と言っても誰もわからない。
私も知らないが「しかし、チコちゃんは知っている」。
「平体1番」は変形率10%、2番が20%・・・と言うように扁平な文字を示すのね。
同じように「長体1番」「長体2番」・・・は縦に細長くした文字を示す。
1990年頃までに印刷物の文字を組むときに使われていた表現だそうよ。
アナログ時代のことだわね。
今はパソコンで無段階に1%までも変形できるから、こんな表現はなくなった。
もっとも1%まで変形すると、ほとんどの文字が線になっちゃうけど・・。
以上、チコちゃんでした。
そんなことはどうでも良い、肝心の案内板は
「きらこうずけのすけ よしなか こう ようちゃくし(まご)」
「きら さひょう よしちかこう」ここに眠る。吉良町(きらちょう)
と読むらしい? 定かでないです!
この地の住所は諏訪市大字中洲神宮寺なのに、
看板の最後に「吉良町」と言うのは何なのでしょう?
「吉良町」が建てた看板?
「吉良町」がどこにあるか、日本人のほとんどが知りません。
吉良町がどこにあるかも知らないで、毎年12月になると「やれ忠臣蔵だ、やれ討ち入りだ」と話す日本人の何と多いことか!
しかし、チコちゃんでなくとも私は知っています。
▼ここにあります。吉良町は吉良家の領地だったのです。
実は西尾市は私の出身地。知っていて当然!?
▼何はともあれ、上野介の孫が眠っているなら、悪いけど眠ってる場合じゃないですよ、起こしちゃいます。吉良からではないですが、八丁堀からやって来ました!
▼三門前にも吉良町からの案内板が・・。
▼仁王門、もしくは禅寺だから山門ではなく「三門」。
▼本堂。賑わう上社本宮のすぐ隣ですが、こちらの境内は静かなもんです。
▼扁額は釈迦三尊。
▼「弁財天」に「大黒天」は諏訪湖湖畔七福神? この七福神は機能してない様子。
▼境内裏にある目当ての墓所に登ります。大好きな階段にこの日初遭遇。
▼トントンとかけ上げれば、すぐ墓に行き着きます。
▼義周が説明されている吉良町からの銘板。
吉良義周は赤穂浪士による吉良邸討ち入りに遭遇。手傷を負い、領地召し上げ、高島藩預けとなります。高島城南之丸へ幽閉されたそうです。
▼そして、その3年後の宝永3年にこの地で病死し、ここに埋葬されました。
300年以上眠っている。病没までの事情からか立派な墓石ではありません。
▼こちらは諏訪市教育委員会の銘板。吉良町側の案内と微妙に違います。
「いつぞやも吉良町の学校の教師さんが、いろいろ調べにやって来られましたよ」と庫裏の女性の言葉。
義周に合掌。