▼碑文谷八幡宮の御朱印。(東京都目黒区碑文谷3-7-3)東京の人間なら難なく読めますが、中には「ひぶんだに」と読む人もいます。
「ひもんや はちまんぐう」です。
地名でもある「碑文谷」の由来と伝わる「碑文石」が当社にあります。
▼内部の授与所は閉まっていて御朱印案内もありませんでしたが、ピンポンで即応いただきました。
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▼東急「西小山駅」から真っ直ぐに参道とつながる緑道を進むのがベストコース。
地域のほとんどは住宅地ですが、かつてはタケノコの産地として有名だったそうです。
「碑文石」が碑文谷の地名由来と前述しましたが、
「檜物(ひもの)屋」とか、それがさらに「秘文の谷」を語源とするなどの説があり、何処の地名もその由来は不確かです。
▼この写真の手前800mほどは道路の中央が少し高くなった緑道になっていて、時季になれば古木のサクラの花で覆われます。
▼緑道が途切れたところに「一ノ鳥居」が建ちます。
▼「一ノ鳥居」の先の参道も桜の見どころですが、桜は若木に変わっています。
近年、何かの理由で植え替えられたのでしょう。ここの桜が賑やかになるのは当分先のことのようです。
▼「ニノ鳥居」の右手が社務所ですが、庭には紅白のウメがきれいに満開でした。
いただいた御朱印にも梅のスタンプが押されていました。
▼鳥居先の参道脇は数台の車が駐められそうです。
▼参道脇ではなく「三ノ鳥居」の真ん前に駐めている方もいました。
▼鳥居周辺には多くの石碑が。これは日清日露戦争関連石碑。
「村社 八幡神社」の社号標も見えました。
▼石段を上がると見ごたえのある狛犬が愛嬌を見せています。
子獅子は寝転んでジャレているのでしょうか?
▼「手水舎」の水は残念ながら完全に「おやすみ」でした。
手水舎の感染症対策は神社により様々です。
▼右手に「神楽殿」が見えました。むき出しの土が少し寂し気に感じます。
▼さらに石段が続き、少し高い位置に社殿が見えます。
▼社殿前の狛犬は現代的な造形。まだ新しい造立でしょう。
▼肝心の拝殿撮影はボケてしまったので加工しています。
鎌倉時代、源頼朝の御家人 畠山重忠の守護神を、その家臣が当地に祀ったのが当社の始まりと伝わります。
社殿は明治に再建されたものが改修を加え現存しています。
▼社殿右手に清楚な姿を見せるのは「稲荷社」。
農業中心だった江戸時代では「五穀豊穣」を願う稲荷信仰が盛んだったことは容易に理解でき、どの村にも大小に関わらず「おいなりさん」の社は存在したのでしょう。
スラッとした狐たちはしっかりと築かれた基台の上で参拝者をチェックしています。
キツネ、タヌキは現代では身近な動物ではなくなってしまっていますが、
「稲荷寿し」はじめ「きつねうどん」「たぬきそば」など、言葉では一番身近になって、親しまれています。
神社では神聖な「撫で牛」「神馬」などですが、現代人はその肉を焼いて、煮て、蒸して、燻して、好んで食しています。
しかし狐の肉は人間に食べられていません。
彼らの好物とされる「アゲ」が「きつね」と置き換えられているだけで、
ここの狐も、人間に食べられていない高貴さを漂わせているみたいです。
▼そんなメドーなことを考えなくても良く、素直に単純に「キツネ」さんを奉納しましょう。
▼稲荷社の左後方、フェンスの向こうに地名由来の「碑文石」が置かれています。
室町時代のものだそうで、フェンスに阻まれ、ガラスケースのような社の中は、よく見えませんが梵字が刻まれています。
「ひもんや」の地名の起こりはこの石が起源ではないかもしれません。
でも、この「石」に梵字が刻まれた頃は確かな「起こり」「起源」があったかもしれません。