荏柄天神社の御朱印
「えがら てんじんしゃ」主祭神:菅原道真(神奈川県鎌倉市二階堂74)
10年間という時間の隔たりがある2体の御朱印に大きな違いはなく、散りばめられていた神紋の梅鉢紋が、23年では神牛と梅紋が一緒になったものになっていました。
▼荏柄天神社の御朱印です(2023年)。
▼荏柄天神社の御朱印です(2013年)。
▼御朱印は境内の授与所左手でいただきました。
23年は書置きのみの授与で、直書き再開は未定とのこと。
▼当社鎮座地の住所は鎌倉「二階堂」。
鎌倉時代に頼朝の邸宅、将軍の御所があった「大倉」と呼ばれていた地域の東端になります。
バスは鎌倉駅から主な観光方面に数多く運行されていますが、当社へは徒歩10分以内の八幡宮などから歩いて訪問する人が殆どでしょう。
▼鶴岡八幡宮から歩いてくると、ここが当社の入口になります。
▼2013年には上の写真の社名が書かれた横長の看板はありませんでした。
実はここは「ニノ鳥居」で「一ノ鳥居」は200m以上南の金沢街道に面して建ちます。
ニノ鳥居前は周囲に木々がゴチャゴチャしていて鬱陶しいのですが、
▼それを潜って振り返ると松の木がクロスしているのがハッキリします。
かつては松並木となっていた参道で、
残された松が偶然が創った結界である「X」なのかもしれません。
この松の木に龍の顔が見つけられるそうですが、不徳にも本ブログは見つけられませんでした。
▼写真がありませんが「一ノ鳥居」も、この「ニノ鳥居」同様朱色です。
▼クロスした神木と鳥居をくぐると参道は100mほど延びています。
▼神社は小高い位置にあることがわかります。
▼楼門までの石段はそれなりな急勾配を持っています。
▼石段の手前左手に建つのは「菅公一千年祭」の記念碑。
▼参拝者の皆さんは勢いよく石段を上がります。
山の斜面を削って平坦地を造成の上、社殿が建てられたようです。
▼楼門に掲げられている「天満宮」の古めかしい扁額。
▼正月8日の訪問は、石段先の境内も参拝者の列が長く「手水舎」の撮影もこの有様。
▼拝殿前から広くもない境内にいっぱい、いっぱいに列が延びていました。
正月8日の鎌倉とはいえ、神社以外の有名寺院ではこんなには並びません。
鎌倉に限ったことではないでしょうが、願い事を聞き入れていただくのは寺院より神社に人気があるようです。
同じようなご利益、お守り、絵馬、おみくじが揃っていたとしても、神社に対する人気の方が勝るようです。
当社の列も受験シーズンともなれば境内外の石段下にも長く伸びるとか。
由緒によれば荏柄天神社は、
1104年8月25日、空が突如暗くなり雷雨と共に黒い束帯姿の天神画像が天降り、里人がこの神験をおそれ降臨の地に社殿を建て、その画像を納め崇拝したのが起こり、とされています。
他の天神社のように太宰府や京都から勧請されたのではなく、
画像はいえ天神自らが天から降りてこられた古社ということで、太宰府天満宮、北野天満宮とともに「三天神社」を名乗る名社だそうです。
▼拝殿の壁にぎっしりと下げられた絵馬も黒装束姿の天神、道眞のようです。
美しい社殿は関東大震災後、1936年に本殿を修理、拝殿を再建されています。
▼鶴岡八幡宮若宮社の本殿であった国の重要文化財としての本来の本殿、はこの建物の中にあるのでしょう。
鎌倉の大倉に幕府を御所を構えた頼朝は、この社が鬼門に位置することから、守護神として崇敬し、社殿も新たに造立したそうです。
その後も足利氏、北条氏、秀吉、家康と、時の権力者の庇護を得てきたそうです。
▼境内右手にも鳥居が建ちます。
崖に設けられた石段を上がると、さらに鳥居。
当社のHPの境内図や、由緒書きには何も説明されていませんが「熊野権現社」でした。
▼鎌倉特有の「やぐら」の奥に石造りの小祠が社殿でしょう。
このような住まいの熊野権現は他では見当たらないでしょう。
▼境内に戻って、社殿右隣の建物は「神輿庫」。
なぜか「八雲神社」の提灯が下げられています。
2月初旬ともなれば梅の花もほころびます。
▼社殿左手のスペースです。
▼学問の神・菅原道真に因んだ「カッパ筆塚・絵筆塚」があります。
▼絵筆塚は見上げるような高さ。
▼154人の漫画家によるカッパキャラクターのレリーフがありました。
漫画家清水崑のちょっと色っぽいカッパもありました。
▼推定約900年の大銀杏。
社伝によると「天神画像」が天降った地を、踏まれないように銀杏を植えたと伝わっています。