長慶山 大巧寺の御朱印
▼大巧寺の御朱印です。
2013年の参拝時は、
ほかの多くの参拝者が祈祷やお守りなどの様々な要求でごった返す庫裏の中、
若い男子に御朱印対応いただき、大変ありがたく恐縮しました。
人の顔を覚えられない本ブログですが、
各個人の「人なり」は勝手な解釈ができます。
超多忙のなか対応いただいた臨機応変処理した男子と、
いただいた御朱印の墨書きとの「セット」は確かな記憶となっています。
そして8年後、2021年。
久しぶりに「大巧寺」を訪問し御首題をいただこうと訪問いたしましたが、
▼「御朱印 書けません」の貼り紙。
スゴイ言葉ですが、桟に隠れて見えない1行があるのでしょう。
見えない1行に何が書かれているのでしょう?
「只今」「本日」「当分の間」等なのでしょうか?
でも、
「私は」「御朱印 書けません」だとしても通じてしまう日本語です。
イジワルな解釈は止めましょう。
大巧寺さんの貼り紙は日本語的には「・・で 御朱印対応できません」とすべきでしょうね。
でも、ウルサイ御朱印収集者には、このくらいのインパクトあるコピーが必要かもしれません。
「書けません」!
大巧寺に限らず、日本全国、多くの寺社で、多くの事情がある御朱印対応です。
▼大巧寺は鎌倉駅前と言ってもいいのですが、「若宮大路」という鎌倉で一番広い通りの東側に山門を構えます。
しかし、鎌倉駅前は「鶴岡八幡宮」へと続く、一番人気の商店街「小町通り」が見えていますので、人々はみんなそちらへ流れていきます。
ですので、一つ先の若宮大路は意外と空いています。
▼大巧寺が山門を構える若宮大路の東側はさらに空いていることが多い通りです。
▼若宮大路に開く山門は正確には「裏門」になります。
大巧寺は「お産女様(おうめさま)」が訛って「おんめさま」とも呼ばれ、
安産祈願で人気の寺です。googlemapも(おんめさま)と表しています。
▼若宮大路の東側に並行してのびる「小町大路」沿いにある入り口が正門になります。
▼こちらの正門から入る人は地元の方々が多そうで、境内は若宮大路や鎌倉駅方面への抜け道として利用されているようです。
よく「通り抜け禁止」などと書かれた看板を目にしますが、
大巧寺はそんな心の狭いケチな事は言いません。
四季折々に何かの花が常に咲いている手入れされた庭を「抜け道」としても解放しています。神社などにはよく見かけられる「抜け道」です。
5月初旬の境内に多くの花は開いていません。
▼でも足元にはカワイイ花がほころんでいます。
そんな石畳の境内通路を「抜け道」としての利用は、地元民の人々にとってはゼイタクな事のように思います。
寺の創建は源頼朝祈願所とされていることから鎌倉時代初期になりますが、
火災や震災で建物を焼失しています。現存する本堂などは昭和の再建になります。
▼本堂には本尊の「産女霊神」が祀られています。
寺のHPから由緒の引用です。
往古ハ鎌倉十二所梶原屋敷内ニ在リ長慶山正覚院大行寺ト称シ真言宗ナリ、
嘗テ源頼朝当寺ニ於テ、軍ノ評定セシニ、其ノ合戦勝利ヲ得タレハ大巧寺ト改メタリ
其ノ後元應二年二月現地ニ移転 住僧某日蓮ニ帰依改宗シ妙本寺ノ院家ニ属ス
天文元年四月当町大倉ノ住人秋山勘解由ノ室難産ニ死シ獄苦ニ沈メルヲ当寺日棟
教化得脱セシメ産女ノ塔(うぶめの塔)ヲ建テ安産守護ノ霊神トシテ祠ル、
開山ヲ日澄(中老)トシ天正十九年十一月徳川家ヨリ御朱印地七貫二百文ヲ賜
内容は理解できるものの、戦前までに起草された法律文書のように文語調の読みにくい文章でした。
▼庫裏は昭和のレトロ感が維持されていました。維持なのか、やむなくなのか?
▼この庫裏の左側入り口に「書けません」の貼り紙がありました。
▼以下2枚の写真は賑わっていた2013年の撮影です。
大巧寺は日蓮宗の寺院ですが、それらしさはなかなか窺えません。
やはり檀家を持たない祈願寺としての「おんめさま」が前面に出されているのでしょう。
▼大巧寺の表門前の小町大路を北へ、宝戒寺方面へ200mほどのところに「日蓮上人辻説法跡」があります。
1254年に、鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵をむすび、
▼小町大路を中心に辻説法を行ったそうです。
日蓮は、武家屋敷や商家が混在するこの場所でも、毎日のように熱心に辻説法し、法華経の布教と、他宗を厳しく批判しています。
800年前、日蓮がここに立っていた姿が想像できなくもない雰囲気の場所です。
大巧寺は日蓮の鎌倉入りの20年後、1274年に真言宗寺院「大行寺」から
日澄により日蓮宗に改宗され寺名も改名されています。
大巧寺は小さな寺ですが、フラッと寄って何かの花が見つかる小道を散策するのも悪くはありません。