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御朱印迷宮

関東を中心とした寺社の御朱印記録です。参拝・収集目的に少しでも役立てば幸いです。

長楽寺の御朱印(群馬・太田市)〜両大師の陰に見え隠れ!「新田義貞」と「木枯らし紋次郎」

世良田山 長楽寺御朱印

ちょうらくじ天台宗群馬県太田市世良田町3119-6)

笑顔招福」のスタンプが押されています。「しょうがん しょうふく」と読むのでしょう。

誰もが知っている四字熟語「笑門来福」、「笑う門には福来たる」とおそらく同じ意味でしょう。

笑顔でいれば厄も寄り付かず、福がやってくるよ! と言うことで、

中央の墨書きは「厄除 両大師」ですが、ご住職から説明をいただいてやっと読めました。

厄除 両大師」の御朱印は、上野 輪王寺門跡(開山堂)でもお馴染みですが、

長楽寺も本堂(大師堂)に慈恵大師(元三大師・良源)と慈眼大師(天海)の両大師が祀られています。

 

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▼道路一つで区切られていますが「長楽寺」は「世良田東照宮」と同じ敷地内と言ってよいでしょう。

 

そして知名度も参拝者の数も、派手な社殿を持つ「世良田東照宮」には負けます。

しかし創建は東照宮より約400年早く、鎌倉時代の1221年です。

当初は臨済宗の開祖栄西の弟子が開基となり臨済宗として創建。

南北朝時代には室町幕府から「臨済宗関東十刹」のひとつに数えられ、最盛期には広大に広がる塔頭寺院に常時500人もの僧が学んでいたそうです。

新田家や足利家の帰依も得ていたと伝わります。

 

その後、新田氏の衰退とともに長楽寺も荒廃してしまったのを家康と天海が天台宗に改宗し、再び大寺院に復興させています。

さらに後の家光の時代に長楽寺の敷地内に建立したのが世良田東照宮なのでしょう。

ですので、長楽寺あっての東照宮と言って間違いないでしょう。

 

▼「蓮池(心字池)」に架かる「渡月橋」を渡って進むと正面は「三仏堂」です。

過去・現在・未来を表し、本尊の釈迦如来阿弥陀如来弥勒菩薩が祀られています。

 

▼三仏堂の先が本坊の門となっています。

▼門をくぐって中に入れば平成に再建された「本堂大師堂)」です。

明治期に慈恵、慈眼両大師像を祀ってからは大師堂と呼ぶようになったそうです。

 

▼「太鼓門」や三仏堂、勅使門は重文ですが「県指定」。

長楽寺は徳川家の祖とされる世良田義季得川義季)が創建したとされることから、徳川家の帰依を得て「徳川家発祥の地」とも言われていますが、

▼やはり世の人々のイメージでは、この地は徳川でなく「新田郡」であり「新田荘」でしょう。

荘園である「新田荘」と言われてもイメージを捉えにくいでしょうが、

太田市のパンフ「新田荘園遺跡」にイメージを掴みやすいイラストが表紙になっていました。(▼イラストは「新田荘遺跡」)

かつては新田郡にこんな館が無数にあったのでしょう。

開墾した土地を運営維持していた人々が、その権益を他所から守ろうとして武士となっていったのでしょう。

 

そんな中でこの地を語るに

稲村ヶ崎の海を鎮め、鎌倉に攻め込んだ「新田義貞」と、

笹沢左保の設定で上州新田郡三日月村に生まれた「木枯らし紋次郎」は外せません。

 

▼鎌倉攻めの「稲村ヶ崎の奇跡」と呼ばれる、義貞が腰の黄金作りの太刀を抜いて、稲村ヶ崎の海中に投げ入れる様子です。(▼写真は「wiki」)

▼リアルな渡世人像を描いた「木枯らし紋次郎」は、太田市が「三日月村」というテーマパーク内に「木枯し紋次郎記念館」をOPENさせています。(▼写真は「C.A.L」)

 

義貞は鎌倉時代の歴史上の人物、紋次郎は昭和を生きた架空の人物です。

二人の話を続けると長くなりますのでまたの機会にしますが、どちらも実直、素朴で不器用な生き方しかできなかったように思います。

 

世良田東照宮の記事。

wave2017.hatenablog.com

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